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ひとり映画感想文集

内側を向く勇気の話:『ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り』


はじめに 

Twitterのタイムラインに大量にその話題が流れてきて、観ていないのになんだかもう観てしまったような気持ちになる映画がないだろうか。私はある。

 『ザ・バットマン』とか『トップガン:マーヴェリック』とか……観てもいないのに、パティンソンのブルースの朝ごはんとか、ハングマンはいわゆる悪役令嬢的なキャラのそれだ的な、核心に触れないけど面白さはわかるうまい情報が流れてきて、どちらも妙な知識のある状態で映画館に行ったのを覚えている。
 『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(以下D&D)の場合はついに上映期間中映画館に行くことが叶わなかったので、私は数ヶ月近く「セクシーパラディン」という語をTLで浴びるように見ていながらも、それがなんなのかは全くわからないまま過ごしていたのだった。
 そんなD&Dがやっと配信に登場したので、レンタル代はちょっと高かったがようやく鑑賞することができた。この記事はその感想である。
 
目次
 

内向きな勇者たち

 感想としては、剣と魔法の世界の冒険という題材にしてはすごく内向きな物語というか、内省的というか、やわらかいところを通過した上でのヒーロー物語で、そういうところが喜ばれているんだろう、という感じである。私もそういうところが嬉しかったので……。
 映画『D&D』のメインキャラクターたちは、それぞれ致命的に苦手なことや出来ないこと、さまざまな事情を抱えており、それゆえに元々属していたコミュニティから離れざるを得なかった人たちだ。キャラクターの長所ではなく短所が物語の主な牽引力になっていて、最終的に彼らはそれと向き合うことになる。
 エドガンは離れ離れになった娘と亡くなったパートナーを取り戻すのが物語上の動機だが、そもそも失った原因が自分にあるという罪悪感ややるせなさにかなり蝕まれているように見える。パートナーが亡くなったのは10年以上前のことだろうが、それほど時間が経っているだけに、彼は多分どんなに元気でも半分ぐらいは落ち込んでいて、そのこと自体にも疲れているのかもしれない。
 上に書いたエドガンの動機は、それ自体が最後には意味をなさない、必要ないものだったことがわかる。それは彼がパートナーを取り戻したいと思って行動するのも、騎士の誓いを破ったのも、目の前にいる人を見ていない独りよがりなことだったと自分で声に出して言うからである。レッド・ウィザードと相対するよりも市民を助けるよりも前に、エドガンのハイライトはここにある。ホルガのバックストーリーやサイモンが抱えている問題も含め、みんながそれぞれ自分の内側に向かった、内省の物語を持っている。そして、この映画では、内側を向くというのは決してネガティヴなことではなく、勇気ある行動として描かれている。
 ソーサラーのサイモンが言う台詞で「魔法でなんでも解決できるわけじゃないんだ」「おとぎ話じゃなくて現実なんだから」というのがあるが、本作のテーマの一つであろう「剣と魔法の世界の住人がみんななんでもできると思うなよ」をよく表していると思う。こうしてそれぞれ事情が違うというのは、魔法でなんでも解決できるわけではないのと同じぐらい、普通のことなのだ。
 
 なんだか、ごく当たり前のことをダラダラ書いているように思えて不安になってきた。でも本作はそういう話だと思うのである。別のタイプのD&Dの映画が作られていたら、たぶん主人公は間違いなくゼンクだっただろう。この映画で清廉潔白な気高い騎士として登場する彼がすぐ去ってしまうのは、そういうわけなのではないかと思う。
 

ミトンと芋

 彼らの欠陥(これがそのまま彼らのキャラクターとして魅力的なところになっている)は、ハリウッド映画のステレオタイプ像からの逃げ道にもなっている。エドガン(クリス・パイン)は編み物をしたり歌を歌ったりとフェミニンな仕草が多く、対してホルガ(ミシェル・ロドリゲス)は大喰らい大酒飲みの戦士という、これまでなら男性キャラクターにあったような要素を持っている。面白かったのは、エドガンは戦士ではないからか武器らしい武器を持っておらず、ほぼずっとものすごく硬いリュート(楽器)で敵をぶん殴っていたところだった。
 『エターナルズ』(2021)もこういう描き方だったと思うが、エドガンが編み物を好んだりホルガがずっと芋を齧っている大喰らいであることに、特に意味はない。さらに言えば、エドガンのパートナーが亡き後二人が友人関係のまま子供を育てて、子供と離れた後も友人のままだったということにも、特に意味はないのだ。なんかただそういう普通の人たちなのである。そして、それを意味なくスクリーンに映すというのは、ものすごく意味があることだ。
 恋愛関係にはないパートナーというのは私個人にとってはかなり自然なことなのだが、フィクションで目にすることは少ない。ホルガとエドガンの関係が当然のものとして扱われている様子を見るのは、自分の中にあるものの存在を目の当たりにする安心感みたいなものがあった。
 

関連作品?

 観ていて思い出したのはちょうど最近Amazonプライムにやってきた『バッド・ガイズ』(2022)、それと『ヴェノム』(2018)なんかもそうかもしれない。どちらも「いろいろ事情はあるがとりあえず馬上でリュートを取り出す」感じの話である。
 
 『バッド・ガイズ』は「生涯嫌われ者だと思っていた悪役が自分の中の善に気づく」という話で、諸々のクライム映画の要素を動物が主人公のアニメーションにした楽しい映画だ。
 メインキャラクターのワルたちは人間と動物の中間のような姿をしているが、警察や一般市民は人間、猫やモルモットのような普通の動物もいる。ミスター・ウルフたち泥棒一味は正真正銘見た目の上でも「モンスター」で、周囲から恐れられ嫌われているという言外の説得力がある。話も面白かったが、この見た目の上での線引きが見事だった。
 「知らない自分になる」というウルフの感覚は多くの人が覚えのあるものだと思うし、嫌われ者として盗みを重ねてきた過去がその邪魔をしたりする。自分の中の善を発見したからといって、それがチャラになるわけではない……というような感じだ。ちなみに、この映画の「リュート」はスマホから流れる爆音の音楽である。
 『ヴェノム』は、海苔の佃煮みたいな見た目の地球外生命体が主人公の身体を乗っ取って最終的に共生するという話だ。こうして書くとなかなか怖い筋書きだが、よくわからないものが自分の中にある気味悪さは割とすぐに「もう一人の自分」「心の声」のように見えくる。それも抱えて一緒に生きよう的な、ヴェノムがエディの体内から出てくるという視覚的なところも含めて、主人公(たち)の内側に向かっている、それが付きまとう物語であるように見える。
 蛇足だが、『ヴェノム』は大人を主人公にしたスパイダーマン的物語のように見えて、私は結構好きだ。ピーター・パーカーが蜘蛛に噛まれて身体が変化する様子は、そのまま10代の身体が変化する様子に当てはめられるが、ここでは失業して不安定になっている大人というのがいい。ひょっとしたらコミックでもそうなのかもしれないが、ミシェル・ウィリアムズのブロンドにヘアバンド、スカートにブーツという風貌はグウェン・ステイシーのそれでもあって、二作しか作られなかった『アメイジングスパイダーマン』へのトリビュートのようにも見える。
 
 どちらも特別ではない人たちが主人公で、それぞれ事情があり、自分の中にたくさんある側面の一つを発見することがハイライトになる。だからといってその事情が魔法のように消えるわけではないのだが、まあそれはそれとして……(馬上でおもむろにリュートを取り出す)みたいな話だ。
 
 ところで、私は「パラディン」が何を指す語なのかがわからなくて鑑賞後に少しの間苦しんでいたのだが、これは「聖騎士」というような意味の、D&D内でのキャラクターのクラス(職業のこと。戦士や魔法使いなど)を表す語なんだそうだ。フォロワーさんその節はありがとうございました。つまり、セクシーパラディンとはセクシーな聖騎士ということだったのである。それは……まあそうだな……。