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ひとり映画感想文集

クレイグ・ボンドを語るための思考実験

去年発行した映画考察本に載せた記事です。8月に本ブログに投稿した記事が元になっているので、そちらはこの記事の公開に合わせて非公開にします。

2020年の夏から秋にかけて、つまりまだ一度目の延期期間(2020年11月の公開を待っていた状態)に書いたものです。これを書き終えるや否や二度目の延期のニュースが耳に入ることを以下を書いている私はまだ知りません。

 

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 007の新作、『ノー・タイム・トゥ・ダイ』(以下NTTD)が公開延期になってしまったことが、仕方のないこととはいえとても悲しい。でも、どうせなら11月までに過去の007映画を全部観て、あわよくば関連作とかも全部観て、当たれる文献も目を通せたら、NTTDを既に観たという設定で架空レビューとか書けるんじゃないか、とポジティブに考えることにした。007シリーズは沢山あるのでゆっくりと目を通していくことにして、ダニエル・クレイグの出演作とか、サム・メンデスの映画を観たうえで改めてクレイグ・ボンドを語ってみたら面白いんじゃないだろうか。NTTDの架空レビューを書いたとしても、書くために観た映画や持った感想は架空ではないのだし。 

 と、いう経緯で始まった思考の流れを書いていこうと思います。ちなみに007は『死ぬのは奴らだ』まで観ました(2020年3月末時点)。今のところショーン・コネリーのボンドがかわいくて仕方ないです。ロジャー・ムーアはいきなりサメとかワニとかと戦って大変だと思う。 

 

1.サム・メンデス版ボンドが終わらせようとしているもの 

 

 とりあえず、サム・メンデス版ボンドの好きな部分を2つ並べるところから始めてみようと思う。 

 

サム・メンデスの007映画はどちらも素晴らしいと思うけど、どちらか一つと言われたら『スカイフォール』を取る。それまで007は大昔に『ドクター・ノオ』を観て挫折した以来観ていなかったのだけど、『スカイフォール』はほんとうにおもしろかった。多くの場合でスパイが戦うのは外部の敵だけど、その過程でサブプロット的に登場する内部で発生した敵を主なヴィランに据えるという構成を取っているのがとても好みだった。そしてそのヴィランとボンド自身の過去を繋げようとする、内省的で個人的な、あまりスパイ映画らしくない印象だったのも好きな理由の一つで、これと同じ理由で私は一番最初の『ミッション・イン・ポッシブル』が好きだったりする。 

 

・『スカイフォール』は、ボンドを「廃船」「老犬」と呼ぶところからスタートする。もう若くない、死ぬ前に引退するか引退する前に死ぬかどちらかのことがすぐに起こるだろうという感じのボンドを、最後にもう一度前線に引っ張りだす、そういう軸が一本『スカイフォール』『スペクター』には通っている(憶測だけど、たぶんNTTDにも)。ダニエル・クレイグのボンドを「終わらせる」ための物語、というのが自分のサム・メンデス版ボンド映画への基本的なイメージである。 

 

 そして、たぶん、「終わらせ」ようとしているのは、ダニエル・クレイグのボンドそれ自体だけではないんじゃないのかな、というのがここで考えたいことだ。ジェームズ・ボンドという一大フランチャイズが抱えてきた揺るぎない男性性のイメージも、ダニエル・クレイグのボンドと一緒に葬ろうとしているんじゃないだろうか。 

 ショーン・コネリーのボンド映画をあらかた観て思ったのは、まるでフィルムスタディーズの教科書のような男性主義的な「視線」の描写が満載であるということだった。ショーン・コネリーのボンドは本当に魅力的でチャーミングだが、「ボンドは女を好きなように見ることができるが、女は決してボンドを見ることができない」という強固な視線の構造がある。歴史の教科書でも読むような気持ちで観てしまった。このほかにも観る人が観たら、ジェームズ・ボンドの男性性がいかに揺るぎないものとして描かれているかが分かるのではないだろうか。 

 シリーズを全て観ることをしないで1960年代と2010年代のボンド映画を比較してもあまり意味がないのは前提として、もしサム・メンデス版ボンド映画に横たわる「終わり」のイメージに付随するものがあるのであれば、こういった類の男性性なのではないかと考えた。

 では次に、サム・メンデス版ボンド映画のどういうポイントが、それまでのジェームズ・ボンドらしからぬ(と推測できる)男性性の揺らぎを示唆しているのか、ということを考えてみる。

 『スカイフォール』を観た時に「あれ?」と思ったのが、後ろ手に拘束されたボンドとシルヴァ(ハビエル・バルデム)が対峙する場面で、シルヴァがやたら意味ありげな手つきでボンドの顔周りに触れていたところだった。意味ありげというのは、とても曖昧な描き方だったと思うけど、性的なものとも取れなくもないような「意味ありげ」な手つきで、そんな風に触られたボンドは「what makes you think first time?」(初めてに見えるか?)と返す。あれ、ジェームズ・ボンドってバイセクシャルなんだっけ、とごく自然に考えた。 

 こう考えると、『スカイフォール』『スペクター』で起こっていると思われるボンドの男性性の解体が、ただサム・メンデス版に限ったことではないのではないかと思えてくる。 

 というのも、『カジノ・ロワイヤル』では、はっきりと男性性をはく奪されることを示唆されるような拷問のシーンがあったからだ。改めて観返してみた時、それまで不動のイメージがあったボンドの男性性が脅かされるような展開があるのか、とかなり驚いた。そして、ダニエル・クレイグ自体よく拷問に合っていなかったっけ、と思い至った。 

 

2.ダニエル・クレイグ、「見られる」俳優

 

 ここでもう少し視界を広げて、ダニエル・クレイグがどういう作品に出演してきたかというアプローチで考えてみる。 

 全ての出演作はカバーできていないが、ダニエル・クレイグは少なくとも「見られる」側の役を演じた経験がある俳優だろう。『愛の悪魔 フランシス・ベイコンの歪んだ肖像』(1998)、『Jの悲劇』(2002)、それからボンド以降では『ドラゴン・タトゥーの女』(2011)。もちろん『カウボーイ&エイリアン』(2012)のようなあからさまな白人男性ヒーローも演じてきたが、クレイグのフィルモグラフィの中に「視線の客体」というアウトラインは容易に引くことができるだろう。

 男性性、というキーワードで引っかかってくるのは『ドラゴン・タトゥーの女』である。これを撮ったデヴィッド・フィンチャーの映画の多くは男性性がテーマになっており、『アド・アストラ』(2019)で有害な男性性と向き合ったブラッド・ピットも、フィンチャー3本の映画で主演を務めた。フィンチャーの映画には、社会が規定した男性性に苦しむ人物がよく出てくるが、ブラッド・ピットの場合はキャリアとその作風の相性が非常にいいのだろう。ただ、『ドラゴン・タトゥーの女』にはルーニー・マーラが演じた強烈な女性ヒーローが登場し、主人公ミカエルは彼女に幾度となく助けられる。原作モノというのもあり、リスベットの存在によってミカエルはそれまでのフィンチャー映画に登場した男性像とは少なからず違ったものになっているのではないかと思う。どう違っているのかと聞かれるとまだ言葉にはならないのだけど。 

 そして実際、『カジノ・ロワイヤル』(2006、キャンベル)にはクレイグが明確な視線の対象となるようなショットがある。バハマのビーチで水着姿のボンドが海から上がるショットは、『ドクター・ノオ』(1962、ヤング)のボンドガールであるウルスラ・アンドレスの登場シーンそのものと言ってもいい(この場面も、コネリーのボンドがアンドレスを双眼鏡で見ている)。その直後に最初のボンドガールであるソランジュをボンドが一方的に「見る」という描写はあるにせよ、視線の対象となる裸体がクレイグとなっていることは確かだ。

 実はクレイグは『スカイフォール』以前にもサム・メンデス監督作品に出演しており、『ロード・トゥ・パーディション』(2002)で彼はアメリカンマフィアのドラ息子を演じた。ポール・ニューマン演じる父親に愛されなかった悲しみを、彼とは対照的にその寵愛を一身に受けていたトム・ハンクスにぶつけようとする空虚な悪役である。にもかかわらず、彼は裸婦像のようにソファに寝そべり、煙草をふかす官能的なショットで登場する。後ろ手に拘束されたクレイグのボンドが、ハビエル・バルデムに顔や首回りを触られるという「受け身」の場面が『スカイフォール』にあるのも、これなら頷ける。サム・メンデスが持つクレイグへの一種のイメージなのだろう。 

 なにが言いたいかというと、サム・メンデスのボンド映画ではっきりと露出した(と私が考えている)ボンド的男性性の解体は、おそらくダニエル・クレイグという俳優を選択したところから始まっているのではないか、と考えられるということだ。

 これは、歴代のボンド俳優がどういったキャリアを積んで、どんなイメージを持たれた上でボンドにキャスティングされたかを加味しないと論証できないところではある。しかし、「ボンドは女を好きなように見ることができるが、女は決してボンドを見ることができない」という男性主義の視線の鉄則が横たわっているこのシリーズに、視線の客体となる役を過去に演じてきて、ひょっとしたらそういうイメージがすでについていた可能性のある俳優をボンドにキャスティングするというのは、それなりに舵を切った選択だったと言えるのかもしれない。 

 さて、ここまで来ると浮かんでくるのは一つだ。ダニエル・クレイグをボンドにキャスティングしたのは一体誰なのだろうか? 

 

3.ブロッコリ親娘とアップデート

 

 映画プロデューサーのアルバート・ブロッコリは、イアン・フレミングの小説の映画化権を購入し、それ以来イーオン・プロダクションは『007 ドクター・ノオ』(1962)をはじめとするボンド映画を製作してきた。バーバラ・ブロッコリアルバートの娘であり、『007 ゴールデンアイ』以降、異父兄弟のマイケル・G・ウィルソンと共同でシリーズをプロデュースしてきた。  

 ブロッコリとウィルソンは、007シリーズの制作において非常に強い発言力を持っている。『ニューヨーク・タイムズ』紙によれば、クレイグを6代目ボンドにキャスティングしたのもこの二人である。そして、注目するべきは、女性プロデューサーであるブロッコリが作中の女性描写を先進的なものとするよう注力してきたこと、そしてその中で特にクレイグ版『007』における女性描写は「これまでよりもはるかに現代的になっている」と話していることだ。 

 サム・メンデス版に限らずクレイグ版に登場するボンド・ガールたちがどのように現代的なのかは、検証すれば自ずとわかることだろう。クレイグ版だけでも、『カジノ・ロワイヤル』(2005)から『ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2020)までは15年の歳月が流れているので、MeToo運動の流れを含んだ大きな変化が見られるのは確かである。ブロッコリが制作を担当したのは1995年のピアース・ブロスナン版からだが、バーバラ・ブロッコリ以前・以後と区切って考えるとさらにはっきりした変化がわかるだろう。 

(シリーズを全作鑑賞してみると、個人的にはやはり『ゴールデンアイ』を境に大きく変化しているように思う。ジュディ・デンチに交代したMがボンドの私生活を辛辣に批判するところも含めて、かなり自覚的になったと言えるのではないか。)

 

 話を戻そうと思う。 

 なぜバーバラ・ブロッコリの名前を出したかというと、彼女が作中での現代的な女性描写に注力しているのであれば、自ずと男性キャラクターの描写にも変化があっても不自然ではないと思うからだ。男女平等を目指して進化していくのは女だけではないはずである。ボンド・ガールが進化しているなら、ジェームズ・ボンドだって進化しているのではないか。 

 そして、その進化の最新版がダニエル・クレイグのボンドなのではないだろうか。次作で5作目となるクレイグの6代目「最新版」ボンド(Ver.6.5.)は、これからさらに進化していく次のボンドのために、過去の伝統的なマスキュリニティのイメージを「引退」させるという役割を担っているように見える。バーバラ・ブロッコリによるシリーズのアップデートと、ストーリー上視線の客体となった経験のあるダニエル・クレイグという俳優、そしてそんなクレイグを客体的に映した経験があるサム・メンデスが合わさった結果、『スカイフォール』でボンド的男性性の「終わり」が大きく発露したのではないかと思うのだ。 

 『スカイフォール』は、 ボンドが一度「死ぬ」ところから話が始まる。彼が撃たれて川に落ちると、アデルが「this is the end(これで終わり)」と歌い出す。ボンドは自らの「過去」と対峙し、結果それを大量のダイナマイトで爆破してしまう。なんとも鮮やかな決別だ。こう考えると、私は『スカイフォール』の一連の「終わり」のイメージが、007シリーズにおけるマスキュリニティに別れを告げているように見えるのだ。 

参考

A Family Team Looks for James Bond’s Next Assignment - The New York Times

2020年10月10日閲覧。

A female James Bond? Never, confirms executive producer | James Bond | The Guardian

2020年10月10日閲覧。

 

 

(本稿は2020年3月29日、5月13日にnoteに投稿した記事を加筆・修正したものです)