お足元が悪い中

ひとり映画感想文集

トム・クルーズ映画からみる「壮年のマーヴェリック」までのイメージ

 

はじめに

 『トップガン:マーヴェリック』(2022、コシンスキー、以下TGM)公開からそろそろ一年が経つ。去年の五月末というと、私が精神的不調から会社を辞めて、実家への引っ越しがちょうど完了した頃だ。手続きや片付けでかなり疲れていて、また「これからいったいどうすればいいのだろう」と漠然とした気持ちになっていた時期でもある。そんな中で、東京よりも格段に少ない電車とバスに乗って見に行ったのがTGMだった。
 映画を観た人であれば重々承知しているだろうが、TGMはトム・クルーズのスター映画であり、彼のフィルモグラフィを総括したような作品である。この記事では、去年TGMを観てからトム・クルーズの映画をあれこれ観返して考えたりツイートしたことを元に、ちょっとしたトム・クルーズ俳優論のようなものを書いていこうと思う。抜けているものや未見のものもあると思うが、特に『ミッション・インポッシブル』シリーズを中心として、若い頃の出演作からTGMの壮年のマーヴェリックまでの変遷を追っていく。
 
目次
 

80年代〜90年代のイメージ

 TGMを劇場で観るにあたって無印をかなり久しぶりに観直してみたが、感想としては可もなく不可もなく、80年代のハリウッドのいいところと横暴なところが全部盛りになっているという意味ではすごい映画だなと思った。あの20代のマーヴェリックのキャラクターは今やったらたぶん観客には受け入れられないだろうな、とも(TGMではマーヴェリックのこの気質が鍵の一つになる)。
 ただトニー・スコットの戦闘機の撮り方やアクションの激しさと勢いは、86年当時に初めてこれを観たら人気が出るんだろうなと言うのも想像がついた。多分、私たちが最近の『ミッション・インポッシブル』の狂気的なスタントを見て呆気に取られるのと同じような現象が起きていたんじゃないかと思う。そういう映画は今も昔もあって、トム・クルーズはその騎手となってきた。
 私はトム・クルーズというとイーサン・ハントのイメージがあまりにも強すぎて、正直マーヴェリックのイメージとあまり結びつかなかった(もちろん、現役で観ていた世代であれば話は違うのだろう)。私はイーサンのことがけっこう好きだ。イーサン・ハントはやることなすことデカいが中身はわりと控えめな男で、危険なスタントはほぼ必ず「気が進まないけどやらざるを得ない」状況に追い込まれて決行する。マーヴェリックのような「野心ある傲慢な若者」というイメージは、おそらくフィルモグラフィのうちで最初にヒットした『卒業白書』(1983)の直系ではないかと思う。『トップガン』の後の『カクテル』(1988)も同じようなキャラクターで、ビジネスで成功したいと野心を燃やす若者が失敗したり成功したりする話だ。
 この手のキャラクターが段々と落ち着いてくるような印象があるのは『レインマン』(1988)あたりからで、この辺から傲慢さが鳴りを顰める代わりに「切れ者」という印象が強くなるように思う。同時に作品選びもスリラーや人間ドラマ、戦争映画が増えて、フィルモグラフィを眺めていて思ったが、90年代〜00年代初めあたりのトム・クルーズの映画はどれもかなり見応えがあって面白い。私が特に好きなのは『ザ・エージェント』(1993)と『マイノリティ・リポート』(2001)で、ちょっと執拗にも見えるほど細かい撮り方をしているのが特徴である。
 

M:IとM:I-2

 一番最初の『ミッション・インポッシブル』は1996年である。96年というと、ピアース・ブロスナンが軟派でクラシカルなジェームズ・ボンドだった頃だ。クリストファー・マッカリーが主軸になっている今のM:Iのスタイルとは全く違っていて、全編に渡って張り詰めた緊張感が今観るとかなりユニークだ。メインプロットも内部の裏切りと組織への不信と内省的なところが多く、ちょっとだけ『007/スカイフォール』(2013)を思い出した。
 トムが映画製作を始めたのはこの作品からだが、スリラーやサスペンス映画が多い監督ブライアン・デ・パルマ(この次は香港ノワール映画で有名なジョン・ウー)という人選からして、シリーズとしての方向性が多分今とは違ったのだろうなというのを感じた。
 私は007シリーズが好きなのでどうしても比較してしまうのだが、M:Iは現代的なガジェットやチームプレーがある点でボンド映画とは差別化が測られていたんだろうというのが推測できた。また今作から登場しているルーサーはテック関係を引き受けるいわゆる「椅子の男」(実際に動くスパイ/ヒーローに対してモニターの前でナビをするキャラクター。『スパイダーマン:ホームカミング』でピーターの親友ネッドが的確に例えた台詞)だが、彼が全身ブランドものの服を着たものすごくおしゃれで仕事のデキる人として登場することはもっと記憶されてもいいのではないかと思う。この後登場するベンジーのように、「椅子の男」はおおよそいつもちょっと頼りないオタクっぽいキャラクターだと、今では相場が決まっているような節があるからだ。そういった通例ができる前の「椅子の男」なのかもしれない。
 
 『ミッション・インポッシブル2』(2000)に対する私の印象はおおよそ「トム・クルーズジョン・ウーの個性がぶつかり合ってジョン・ウーが勝ってる」みたいな感じなのだが、この映画ですごく面白いと思うのは、「トム・クルーズの顔をしたマスク」が登場するところだ。
 TGMのマーヴェリックは、周囲から繰り返し「その目つきやめろ」と言われている。初めにこのセリフを言うペニーとの場面から察するに、「その目つき」とは80年代の「傲慢な若者」の傲慢さを全部殴り飛ばせるようなトム・クルーズの魅力、エネルギーのようなものを言っているのだと思う。主に女性とのロマンスの場面でこの「目つき」は発揮されているのだろうが、ホンドーもそう言っているので多分対女性キャラクターだけではなく、いろんな映画でいろんな人がトム・クルーズの「魅力ある視線」に屈してきて、それは必ずしも健全な関係ではなかったという反省の意味が込められているのだろう。
 『ミッション・インポッシブル2』は、視線というわけではないが少なくとも「トム・クルーズというスターの顔」には自覚的なところがある。スターにとって顔は重要だ。私たちはその顔をヒーローや悪役だと認識し、その顔に対して各々のイメージや物語を付与して映画を観る。そんなトム・クルーズの顔がグニャッと歪んで皮となり引き剥がされるショットは、脚本の捻り以上の意味があるように見える。
 

M:I-3、もしくはベンジー以後

 『M:I-3』(2006)からサイモン・ペッグが参加しているのは外せないポイントである。私はベンジーのことが大好きだ。シリーズを「ベンジー以前」「ベンジー以後」と分けられるんじゃないかというぐらい、重要なキャラクターだと思う。コンピューターが専門の「椅子の男」でルーサーと似たような立ち位置だが、半コメディリリーフのような扱いで登場して、次作からはシリーズのマスコットキャラのような存在になっている。J.J.エイブラムスが『ショーン・オブ・ザ・デッド』のファンだったことが起用のきっかけだったらしいが、三作目はサイモン・ペッグ以外にもマギーQの存在や、イーサンを数分死なせてまでもジュリアに銃を取らせたりと、トム・クルーズ以外のところに手が行き届いている印象を持った。
 
 最近ではもうすっかりお馴染みになった感があるが、トム・クルーズが壮絶なスタントをやるのがもはや「面白い(funny)」ことのように受け入れられ始めたのは『ミッション・インポッシブル:ゴースト・プロトコル』(2011)ぐらいからではないかと思う。ブルジュ・ハリファのアクションが予告編か何かで出た時に、高校生ながら「何してんの……?」と思ったことをよく覚えている。
 そして、この面白さにサイモン・ペッグはなくてはならない存在なのだ。イーサンが不可能な何かをやらざるを得ない時は大抵ベンジーが一枚噛んでおり、要所要所の場面でサイモン・ペッグのコメディ演技がトム・クルーズを食っているような現象が起きている。ブルジュ・ハリファの壁を外から登らなければならなくなった時、手のひらが物に吸着するようになっているグローブのバッテリーが「青ならくっつく、赤なら死(Blue is glue, red is dead)」と残酷にもイーサンに告げるのはベンジーだ。私が高校生の時に思った「何してんの……?」という空気はスクリーンの中にも流れていて、ここはスタントも凄いが何より面白い場面になっている。
 こういった、ある種の受け身のキャラクターというか、(常に一歩先を行って色々とコントロールしている切れ物ではなく)戸惑いながらも最終的にはトム・クルーズ力でなんとかなる程度の「抜け感」のようなものが、実はこの人にすごく合っていたのではないかと思う。TGMの壮年のマーヴェリックはそういうキャラクターだったと思うのだ。たった一人でかっこよくスクリーンを占領するよりも、エネルギーのぶつけ合いができるようなキャラクターを周りに置いている映画の方が、私は断然うまくいっているような気がしている。
 そう思って「戸惑うトム・クルーズ」を意識しながら観てみたのだが、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(1994)では8歳くらいのキルスティン・ダンスト相手にこの現象が起きていた。『トップガン』ではヴァル・キルマーアンソニー・エドワーズ相手に、TGMではマイルズ・テラーとの雪山の場面なんかが、多分そうだったのではないか。
 
 2012年の『アウトロー』から頻繁にコラボレーションしているクリストファー・マッカリーは、トム・クルーズのこの種の魅力をたぶんよくわかっている人なのだろうというのは想像に難くない。『ミッション・インポッシブル:ローグ・ネイション』(2016)では、イーサンはベンジーの勢いに押されて危うく溺れかけたり、蘇生した後に走ろうとして転んだり、なかなか抜けているところがある。『ミッション・インポッシブル:フォールアウト』(2018)ではベンジーのナビにかなり振り回されていた。
 この文脈だと蛇足になるが、私がクリストファー・マッカリーについて思うのは、画面がとにかくシンプルで単純、観客がなんとなく観ていても理解できてついていける画力の強さだ。『ローグ・ネイション』の冒頭の滑走路の場面の強烈なシンプルさや、事情を説明する台詞が恐ろしく単純なのとそれを捕捉する映像の切り貼りの仕方が抜群にうまいと思う。TGMでは製作として参加しているが、ミッションの説明(デス・スター破壊任務とほぼ一緒である)がされるパートから繰り返し挿入される基地の立体映像は、観客の理解を大いに助けているだろう。
 
 TGMのマーヴェリックも、恋人の家の窓から帰るところをその娘に見られていたり、若者に包囲されて酒場から追い出されたりとけっこう情けない。でもそれは一番のキャラクターの魅力にもなっているのだ。
 

壮年のトム・クルーズ

 TGMが今までのトム・クルーズの映画と決定的に違うところは、「トム・クルーズも歳を取った」ということにはっきりと言及しているところかと思う。私のイメージであってひょっとしたらどこかで言及されているのかもしれないが、M:Iシリーズのもっとも狂気的な部分は、あの壮絶なスタントをトム・クルーズ本人が「あの歳で」やっていることとほぼ同じラインに、作中でイーサン・ハントが歳を取ったことに誰も言及していないことであると思うのだ。イーサンがもうたぶん還暦も近いということに、まるで誰も気づいていないかのよう。M:Iシリーズに限らず、フィルモグラフィの中で年齢(加齢)を感じさせる役自体ほとんど見た覚えがない。
 それを、今回TGMでそれはもうしっかりと言及し、というかそれを主軸として映画を一本作ったと言っても過言ではないほどにやったのだから、少なくともM:Iではもう同じことはやらなさそうだなと思う。再来月に公開が控えている『ミッション・インポッシブル:デッドレコニングPart1』は、その「加齢」というスター映画としてのストッパーのようなものが外れた状態で、最後まであの振り切った勢いのまま行くのではないかという気がするのだ。そういう意味もあって楽しみである。
 

おわりに

 さて、去年の大量のツイートを元にトム・クルーズの話が好きなだけできて嬉しい限りだ。
 60代の母は数十年前に父と86年の『トップガン』を観に行ったらしい。というか、『トップガン』の続編が出るとニュースがあった時に母親と話したのだが、トム・クルーズはうちの父親とほぼ同い年だ。生年を調べてみたら松重豊ともほぼ同い年だった。私が映画館に行ったのは去年の6月の初めで、平日の昼間、貸切状態を予想していたけど席はかなり埋まっていて、それもみんな私の親ぐらいの歳であろう観客ばかりだった。さもありなんである。今でも覚えているが、F-14の席もしっかり埋まっていた。座っていたのも父親ぐらいの歳の人だったなあ。