お足元が悪い中

ひとり映画感想文集

マッ缶と菜の花体操(お題)

お題「地元では当たり前のものなのに、実は全国区ではなかったものってありますか?」

 

 いやそれはもうマッ缶と菜の花体操しかねーだろ……と思ったらブログ一覧の時点ですでにマッ缶について書いてる方がいらしたので、加勢(?)する気持ちで(??)書きます。

 千葉県民です。「マッ缶」とは、「マックス缶コーヒー」の略で、「マックスコーヒー」とは、おそらく千葉県内とそのごく近郊でしか発売されていないコーヒー飲料のことです。自販機とかにある。

 パッケージは黄色と茶色で、練乳が入っているのでハチャメチャに甘い。マジで、本当にめちゃくちゃ甘い。コーヒーとは一体何だったのか的な……めちゃめちゃ甘いので、子供にはすごく人気、というか、小学生ぐらいの頃「コーヒーを飲む」ムーブをしたくてマックスコーヒーを飲むみたいなことをやっていた記憶がある。高校生ぐらいになってブラックコーヒーを飲むようになってから久しぶりに飲んだら、「これは……コーヒー的な別の何かだな」となったのも覚えてます。

 「菜の花体操」とは、だいたいの千葉県民が知っているラジオ体操的なやつ。今もやっている学校があるのかはわかりませんが、私が小学生の頃は確実にやってた。もうほとんど忘れましたがなんか最初に足でリズムを取る動きがあって、子供心に「これ必要なのかな」と思いながらやってた。

 菜の花体操はやっているところとそうでないところがあるので、千葉県民全員がもれなく知っているものというわけではないと思う。私よりももっと東京寄りの場所に住んでいる友達はやったことがなくて、そう知った時はかなりびっくりしました。

 どっちも上京してから「そういえばマッ缶って東京にねえんだな……」とぬるっと気づいたな。

 

 あと、群馬県沼田市に住んでいた親戚がいてよく行っていたんですが、あそこには「おぎょん」というすごい盛大な夏祭りがあり、神輿だけではなくなぜか超デカい天狗の顔を担ぎます。これも後から思ったけど普通の夏祭りって多分天狗は担がないんだよな……。

映画の格付けができない(今週のお題「上半期ベスト◯◯」)

今週のお題「上半期ベスト◯◯」

 

 あ〜難しい これ難しいっていうか、苦手なやつ。

 この時期私のTwitterのTLは「上半期ベスト映画」のタグが流行る。一月から六月まで観た映画の格付け10本ぐらいのツイートだ。

 毎回やってる人、マジですごいと思う。継続して一定量の鑑賞ができているということだ。私は映画を観ても、それをランク付けするということがなんだかできなくなってしまった。以前はやっていたはずなのだが、何を基準にすればいいのかわからなくて、いつの間にかやるのをやめてしまったのである。フィルマークスの星とかつけたことない、というか、ちょっと前にフィルマークスに星をつける機能があることに気づいたぐらいだ。なので私のレビューは、褒めていても星が常にゼロという矛盾も甚だしい感じになっている。

 なぜできないのかというと、なんか、こう、①色々考えすぎてしまうのと、②格付けしたことでその映画の評価みたいなものを固めたくないみたいな、そういう気持ちがあるからだ。自分でも面倒な人間だと思う。

 上半期観て面白かったものは確かにあるが、でもそれを「面白かった順」に並べるのは、私にとって大変な作業すぎる。そもそも「面白い」ってなんなのだろうみたいな、そういう感じになってしまうからだ。「面白い」とはすごく便利な言葉だ。私はトッド・フィリップスの『ジョーカー』が苦手だが、考察のしがいのある映画なのは確かで、「面白かった」の広義には属すると思う。この調子で2019年ベストを作ろうとしたら時間がいくらあっても足りない。

 

 なので、いつもTLのこの手の話題に乗る時には「なんとなく最近観てよかったもの」というフワッとしたツリーでお茶を濁している。でも人のベスト映画リスト見るのは大ッ好きなんですよね。有名な監督が出してるオールタイムベストとかももりもり見る。好きな映画、良いと思った映画を知ることは、その人がどんな人か知るのにとてもいい一つの方法だ。いつかまた私もできるようになるんだろうか。

 という800字の前提を書いた上で私が最近観て良いな〜と思った映画は、『マッシブ・タレント』でした。ニコラス・ケイジニコラス・ケイジ役を演じて、大富豪のペドロ・パスカルの誕生日パーティーに呼ばれて一緒に映画を作ることになるという話です。一体何を経たらそういう話になるのかわかりませんが、もし自分が大富豪だったらほぼ同じことしてるな……と思った。めっちゃ良かったです。おすすめ。

 

時間と戦う映画スター:『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』

はじめに

 映画館、マジで中年以上の世代の人ばっかりだったな……。『トップガン:マーヴェリック』よりも年齢層が高かったかもしれない。まあハリソン・フォード81歳、スピルバーグ76歳、ジョン・ウィリアムズは91歳なんだから、そうもなるだろう。観ている側も歳を重ねているということだ。私はそのうちマーベル映画でこれに似た体験をするような気がしている。
 筆者は90年代生まれで、『インディ・ジョーンズ』への親しみがディズニーシーのアトラクションと『クリスタルスカル』の薄ぼんやりした記憶ぐらいしかない。新作を観るために過去の4本を観たりしたので、以下はそれも含んだ『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』の感想である。
 
目次

『レイダース』から『最後の聖戦』まで

 大学生の頃に『レイダース/失われたアーク《聖槍》』を観たことがあったが、正直あまり面白いとは思わなかった。アトラクションだけは何回も乗っているので、「この罠……知ってる……!」みたいな発見は確かにあった。観返してもその印象は変わらなかったのだが、今回4本続けて観たら2作目から急に面白くなり出してかなりびっくりした。
 なんだろう、思い出したのは『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズとか『ミッション・インポッシブル』で、回を追うごとにやることがトンチキな感じになっていき、観ている方も「何してんの……?」みたいな感じで観てしまうみたいな……世界の神秘や秘宝を探し、だんだんとそれが失われていく様も目にするという点ではより『パイレーツ』と通づるところがある(もちろん、『インディ』が『パイレーツ』に通じているのではなく順番が逆なのだが)。
 私はあまりたくさん観たことがないのだが、バスター・キートンとかジャッキー・チェンの映画ってこういう感じなのかな。ドタバタとメチャメチャなアクションを楽しむ、スピルバーグはそういう冒険活劇ものを80年代に復活させたかったんだろうというのは想像に難くない。
 「2作目から急に面白くなった」というのは、やっぱり周りのキャラクターに「インディがやっていることはマジでクレイジーだ」とたくさん言わせたからじゃないかと思う。だって普通吊り橋の真ん中にいる人は吊り橋のロープをぶった切ったりしないじゃん……そこでヒロインに「nuts」と言われるから、大いに面白い場面として観ることができる。キー・ホイ・クァンにも「あいつは正真正銘のクレイジー」って台詞があったし。
 『最後の聖戦』も、超インドアの父親(ショーン・コネリー)がセットになっているから面白い。以前トム・クルーズについても同じようなことを思ったのだが、インディはインディ単体なのではなく、誰か一緒にいた方がいい。イーサン・ハントだって、単体ではなくベンジーが一緒にいた方がいいのと同じだ。バイクに乗りながら長物で敵を薙ぎ倒すインディを撮るなら、サイドカーでそれにドン引きしているショーン・コネリーを置いた方が絶対にいい。
 
 
 ところで、私は今回ちゃんと観て初めて「そうかこの人学者なんだった」と認識したくらいだ。いや激ヤバ学者すぎるだろ……。あんな生活しててテストとかレポートの採点とかどうしてんの? TAとかいるのかな……大変そうすぎるだろジョーンズ先生のTA、絶対やりたくない。
 

クリスタルスカルの王国』

 本当なら、これがハリソン・フォードの『トップガン:マーヴェリック』的な、「久しぶりに最後にやる一本」ということだったんだろうな、というのは結構明らかだ。壮年期のインディは三部作の頃からはちょっと違う人になっていると思うし、このまま行くと『運命のダイヤル』でうるさい隣人に木製バットを持って文句を言いに行く感じの老人になるのもよくわかる。若い頃は冒険好きなライフスタイルを職場で隠そうとしているようなそぶりがあるが、多分歳を取るにつれてめんどくさくなってきてるんだろうなというのも思った。
 若くて向こう見ずな冒険家が歳をとって「おじさん」「爺さん」と呼ばれる側になる、そういう「老い」のテーマも割とちゃんと踏襲していて、最後はマリオンと再び結ばれて、結婚生活という新しい冒険に出る……かなりしっかり「終了」している。4本目を観終わったときは「80にもなってこれ以上一体何を……?」という気持ちでいっぱいだった。
 
以下、新作のネタバレがあります。よろしくどうぞ。
 
 
 

『運命のダイヤル』:ハリソン・フォードVS時間

 こうした長く続くシリーズものや、時間を経て作られる続編は、どうしても「時間の経過」や「老い」がテーマになる。というか、そこから逃げて全く昔と同じようにやることはできない。もう昔ではないからだ。『運命のダイヤル』は、その辺りにちゃんと向き合った映画なのではないかと思う。
 なんというか、映画スターでいることとは時間との戦いなのだな……としみじみしたことを思った。私たちから見ればスクリーンにいるスターは映画さえ観れば会える、朽ちることのないものだが、それは血肉ある生身の人間によって作られたものだ。映画スターの物理的な肉体は時間に勝つことはできないが、カメラに収めさえすれば映画には残る。
 冒頭でハリソン・フォードの身体がしっかりと映されたのは、そういうことではないかと思う。
 インディは過去の時代に残りたいと言う。ここは、多分多くの人が「アルキメデスの墓に入っていたのは過去に残ったインディなのではないか」と思ったと思う。それはそれですごくロマンがあるというか、綺麗な終わり方になるような気がしないでもないが、ジェームズ・マンゴールドはそうはせずに、ヘレナ(フィービー・ウォーラー=ブリッジ)がパンチで昏倒させてインディを現代に連れ帰るという荒技をとったわけである。
 それはたぶん、映画スターが戦っている時間とは、現在の時間だからだ。昔活躍したスターは老いると「過去のものになった」とよく言われるが、人間は現在を生きている限り過去のものには「なれない」、そうなることは許されない。今現在に生きることを諦めてはいけない。ヘレナの荒技にはそういうものが込められているような気がする。
 

おわりに(追記)

 若い頃に大ヒットした映画の主演をやっていた俳優が歳をとってから「老い」をテーマにした続編を作る、というの、前世紀でもあったのかなあ。ちょっと思い当たる節がない。
 そもそも、映画で続き物をやるというのが定着したのが『スターウォーズ』以降のような気がする(それ以前は『荒野の七人』とかそうかもしれないが、今とはちょっと感覚が違うような?)から、撮影所システムが崩壊した後の「映画スター」の一種のキャリアの流れになってるのかもしれない。
 40年後ぐらいに、70代のクリス・エヴァンスがエンドゲームに出てきた年取ったスティーブ・ロジャースの映画の主演をやって、それを観にいく5〜60代の私、みたいなのが容易に想像できるんですよね、マジで。
 
 
 余談なんですが、トゥクトゥクってそんな……ああいうの(?)に耐えられる乗り物なんでしょうか……あんな直角に曲がれるんか? インディのトゥクトゥクはそうなのか……そう……
 

ネタバレNG基準(お題)

お題「皆さんのネタバレNG基準はどこですか?」

 面白そうなお題。人によって全然違うんだろうな。

 「ふせったー」というサービス、ありますよね。本当に便利。劇場で見た新作の感想とかすぐ呟けるし、追記にすごい考察書いてる人とかもいるし。伏せる部分と伏せない部分を自分で設定できるから、個人的にはネタバレは問答無用で全文にワンクッションがつくフィルマークスのレビューより使いやすいと思う。フィルマークスはフィルマークスで、映画の感想と情報収集に特化したいいアプリだと思うんですが。

 ちょっと前まではこう、ネタバレに関してネット上がものすごく厳しかったような気がしたんだけど、最近はそうでもないのかなと思ったことがいくつかある。例えば『アベンジャーズ:エンドゲーム』の時とか、監督のルッソ兄弟が「公開から一週間はネットでネタバレするのやめよう、それを過ぎたら解禁」みたいなガイドライン的なものをアナウンスしていた記憶があるんだけど、『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』はネタバレっぽいファンアートが公開直後から結構流れてきたな、という。

 Twitterの仕様が変わったり、最近は私がそもそもネタバレ対策的なことを特にしていないのもあるので、前者と後者を簡単に比較はできないと思う。でもこう、『エンドゲーム』とか『スカイウォーカーの夜明け』の時みたいに、ひたすらワードミュートしたり鍵かけたりみたいなことはしなくなった。ネタバレNG基準、私は以前よりも緩くなっているんだと思う。

 

オタクは必死でした。

 

 ネタバレを避けたり自分がしないように気をつけるというのは、話の核心を知ることで初めて観る・読む楽しみを奪わないため、ということだ。情報が入ってこないようにして一気に劇場に行って観る、という体験はそれはそれで楽しいし、ミュート設定したりするのもゲームみたいで面白い。エンドゲームの時なんかはたくさんの人がそうしていたので、お祭り的な楽しさがあったのはよく覚えている。

 ただ、人に話したりするときは核心を含めて話した方がより良さが伝わることもあると思う。その辺りを言っていいか確認するのは前提だと思うが、ネタバレ含めて教えて! という人も、私の体感でしかないのだがわりといると思う。

 あと、事前に注意喚起しなくてはならない内容もある。光の点滅が激しい場面への注意はよく見るようになったが、性暴力描写や差別描写などの誰かが加害される場面や、自殺や自傷への言及などは事前に観客に知らせて、観るか観ないか選択できるようにするのが第一だ。

 こう色々考えてみると、「ネタバレ」とはけっこう曖昧で、それぞれのバランスで成り立っている微妙なもののように見える。ちなみになんですが、私はスパイダーバースを観た帰りに寄ったアメコミ屋さんで『フラッシュ』の特大ネタバレを肉声で喰らうという体験をしました(会話がたまたま聞こえてしまったやつ)。大作映画のお祭り感を肌で感じて、なんかちょっと嬉しくなった。でも私と面と向かって話すときはやっぱり確認してほしいです。

 

 

正体不明の涙(お題「号泣した映画」)

お題「邦画でも洋画でもアニメでも、泣けた!というレベルではなく、号泣した映画を教えてください。」

※後半でHBOドラマ『チェルノブイリ』の話をしています。原発事故を扱った壮絶なドラマの話なので、今そういうの読んだら疲れるな……という人はご注意ください。

 

 

 あるな〜。私はいつも「〇〇な映画教えて」と人から聞かれてもパッといい答えが出てこないのだけど、このお題も見ても「あるな……(しかし何だったかはパッと出てこない)」になってしまった。ちょっと頑張って思い出してみようと思う。

 

『紳士協定』(1947)

 内容を今やあまり覚えていないのに、「めちゃくちゃ号泣した」という記憶だけが残っている映画がある。『紳士協定』。

 あらすじは、今さっきちょっと調べたら何となく思い出したのだが、ある記者が記事を書くために「自分はユダヤ人だ」と名乗ることで周囲の反応を見て、反ユダヤ主義の実態がどういうものかを探ろうとするという話だ。日本で生まれ育った自分にはなかなかピンと来ないな、と思ったのも覚えている。でも、例えば、顔の見えないインターネット上で周りからどんな属性を持っていると思われるかで経験するものが全く違ってくる、というようなことに近いものだと思う。

 「紳士協定」という言葉自体の意味は、暗黙の了解、言外でなされる協定というようなもので、つまり主人公の周囲や属している社会に反ユダヤ感情が暗黙のものとして存在していることを指している。

 主人公がユダヤ人だと名乗ってからというもの、周囲の態度は一変してしまう。身近な人だけではなく、泊まるホテルの対応とか社会的な部分まで。確か最後の方にグレゴリー・ペックの長台詞があって、それが暗黙の了解的になされる差別に反対するすごくいい台詞だったのだ、確か。1947年にこの映画が作られたというところも含めて、ものすごく泣いた記憶がある。

 

チェルノブイリ

 もう一つ思い出したのは、これはドラマのミニシリーズだが、HBOの『チェルノブイリ』だ。夜の9時くらいからうっかり見始めてしまってそのまま5話全部見てしまった。言うまでもなくチェルノブイリ原発事故を扱ったドラマで、小学生ぐらいの頃から「戦争・原爆もの」で刷り込まれた怖さをありありと思い出した。

 緊張感と重量感がものすごくて前半の3話は泣いている余裕なんてなかったのだが、4話で危険区域に残された動物の駆除をする青年が主人公のパートがある。『聖なる鹿殺し』とか『イニシェリン島の精霊』のバリー・コーガンがその青年で、この回で何かのバルブが外れたように号泣したのを覚えている。怖かったのか、かわいそうだったのか、つらかったのか、理由がうまく言葉にできない。

 そういえば『ウィンド・リバー』もそういう号泣の仕方だったな……(これも大変しんどい話なので、あらすじをしっかり確認してから観ることをお勧めします)。こう、『レ・ミゼラブル』とか『ショーシャンクの空に』を見て号泣する時とは全然違う種類の涙が出るやつ。涙は辛くても嬉しくてもストレス負荷がかかった時に出る、という話の裏付けになるような……多分もっと全然自分では理由がわからない種類の涙ってあるんだろうな。

 

「500円でうまい棒50本買う」的な話(今週のお題「30万円あったら」)

 

今週のお題「30万円あったら」

 

 大金じゃん。どうしよう。以前ロンドンに旅行に行ったが、その時の予算でも20万円くらいだった。2月末の飛行機が安い時期で、10日で20万。プラス10万……ロンドン15日行けるじゃん? いや、それはちょっと単純すぎるな。

 

 うーん。

 しばらく考えてみたが、「おやつ代500円でうまい棒を50本買う」みたいな思考にしかならなくて、その貧相さにちょっと落ち込んでいる。

 最近、映画館の料金が2000円に値上げされた。何年か前は1500円くらいだったと思うのだが、なかなかつらいな……と思う。30万円あったら映画館で150回も映画観られるじゃん。すご! 

 別に何も150本違う映画を観なくてもいい。『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』を150回観ても良いわけだ。時間的な問題とか、スパイダーバース150回観たら情報量でどうにかなるとかそういうのは一回置いといて、それも選択肢になるということだ。だって私の30万円なんだから。選択肢が増えるとはいいことだ。現に私のTwitterのTLには、『トップガン:マーヴェリック』をそれくらい観ているのではという人をちらほら見かけるし。

 

 本。無限だな〜。エドワード・ゴーリーの本全部欲しい。あとなんか綺麗で鈍器みたいな図鑑とかも欲しい。私が生涯で買った本で一番高かったのは3万円くらいするティム・バートンの画集(当時生まれた姉の子供くらいの重さだった)なのだが、そういうやつもっと欲しい。

 旅行? 私は学生時代に友達と『水曜どうでしょう』の真似事をしてサイコロの旅をやったことがある。青春18きっぷと宿泊代、食事代で一回3〜4万円ぐらいの貧乏旅だった。30万円あったらサイコロ10回できるってこと? それは……怖いな……。余談だがあれは四国に入ったら本当になかなか出られないのである。バリアでもあんのかってぐらい。

 リーボックのスニーカー欲しい。

 寄付もしたいな。今LGBTQIA+の若者に向けた活動をする団体に少額ながら毎月寄付しているのだが、金額を上げることができる。

 すげー良い画材とか欲しい。世界堂で売ってる二度見するくらいの値段の紙と絵の具とか。

 プロジェクターとスクリーンとかいいな。プロジェクターとスクリーンって30万円で買えんのかな……? スクリーンがなくても白い壁があればいけるのか……? 無知を露呈しそうなので詳しく書くのはやめておこう。

 

 色々書いて思ったが、お金があるとは選択肢があるということだ。より良いものとかより好きなものとかを選ぶことができる。使えるお金が少なくて選択肢が狭まるとストレスになる。そのストレスは結構なものだ。思うところが色々あるお題である。

 今気づいたんだけど、確かうまい棒ってもう500円で50本も買えないよね……? 

 

 

夢のまちウェストビュー:郊外と身体から見る『ワンダヴィジョン』

 

はじめに

 2021年にディズニー+で配信された『ワンダヴィジョン』を「アメリカの郊外」という視点で見た感想です。ふせったーにざっと書いたものをそのまま載せていたのですがあまりに体裁が悪いことに気づいたので、もっと詳しく書いてここに投稿し直すことにします。

 当ブログ比でわりとごりごり考察しています。楽し〜。

 

 MCUマーベル・シネマティック・ユニバース)のフェーズ4は基本的に「お馴染みのキャラクターたちの『エンドゲーム』後」と「新キャラクターの紹介」で構成されているのだが、本作はそのワンダ・マキシモフ版である。

 本来だったらフェーズ4の三作目か四作目あたりに位置付けられ、最終話が配信された直後に『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』が公開されるというスケジュールだった。が、新型コロナウイルスが流行した影響でその辺りの順番が大きく変わってしまった。コロナ憎し。

 そんな事情で、トップバッターを飾るはずだった『ブラック・ウィドウ』の代わりにかなりの変化球ドラマがフェーズ4の幕開けとなったのである。

 

 私はこれを全話配信されるまで待ってから友達と通話しつつ同時再生して見たのですが、全てが不可解すぎて本当に7時間ぐらいずっと怯えていました。

 

目次

 

 

あらすじ

 ググってくれたらほぼわかるものだとは思うのだが、あらすじを簡単に紹介しようと思う。

 以下最後までしっかりネタバレしています。

 『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー(2018)で、ワンダはせっかく手に入れた恋人を無惨にもサノスに殺されてしまい、『エンドゲーム』(2019)で復讐のために戻ってくる。確かにアベンジャーズはサノスには勝ったが、だからと言ってヴィジョンが戻ってくるわけではない……という、この前提が既に不安でいっぱいだ。

 不安でいっぱいのはずなのに、本作は番組の形式自体がハチャメチャに陽気なシットコムとして始まる。第一話は50年代の『アイ・ラブ・ルーシー』、第二話は60年代の奥様は魔女(ピッタリすぎだろ)、第三話は70年代『ゆかいなブレディ家』……と、画面サイズからキャラクターの風貌、街の風景、画質までもが一話ごとに変わっていき、なぜそうなのかという説明が途中まで一切されないままドラマが進行していくのである。怖すぎる。

 ワンダとヴィジョン夫妻が住んでいる街は「ウェストビュー」という名前なのだが、実はワンダが実在する同名の街を(住人も含めて)テレキネシスで丸ごと操り、彼女の理想であるアメリカのシットコムのようなハッピーな生活ができる、普通の郊外住宅地」に変貌させていた。ウェストビューは外側から見るとバリアのようなもので覆われていて、S.H.I.E.L.D.の後続の組織であるS.W.O.R.D.がこれを調査している……という具合だ。エヴァン・ピーターズというサプライズキャストなども挟みながら(食ってたピザ放り投げるところだった)、話が進むにつれて事態はどんどん悪い方向へ転がっていく。

 

 簡単にと言いながらかなりガッツリ書いてしまったが、私が注目したいのはこの「郊外住宅地」という点だ。

 

 『ワンダヴィジョン』は、アメリカの高度経済成長とともに同国のコンテンツに溢れていった「郊外」を舞台にしたシットコムのざっくりとした変遷が追える、とてもおもしろいドラマである。まさかMCUの作品をこんな文脈で語る日が来るとは思ってもみなかったのだが、でも本作はすごく優れた「郊外モノ」なのだ。

 

『ワンダヴィジョン』の郊外

 「郊外モノ」というのは私が勝手にそう呼んでいるだけなのだが、50年代のアメリカで急速に発達した「郊外」という特有の場所を舞台にした映画やドラマのことだ。アメリカのコンテンツには郊外を題材にした作品がとても多いし、今でもそこそこ見かけることがあり、『ワンダヴィジョン』はまさにそれである。

 

郊外とは

 郊外(surburb)とは、高度経済成長期のアメリカが住宅政策に力を入れたことによって発達した、都会から離れた住宅地のことである。家電や車が中流階級でも安価に手に入るようになったのと同じように、プレハブ住宅も手の届く価格で量産され、たくさん建てられた。都会の喧騒から離れて、緑の多い郊外で子供を育てるというライフスタイルは当時の新しいアメリカン・ドリームとなったのである。

 こうした「幸せな生活」イメージは雑誌や映画、テレビ番組で大量に再生産された。その一つがシチュエーション・コメディ、いわゆるシットコムだ。

 基本的には一話完結で、同じ場所や人物の関係から巻き起こるドタバタ劇を約30分に収めたもののことだが、別に全てのシットコムがファミリーものというわけではない。『フルハウス』もシットコムだが、『ビッグバン・セオリー』や『フレンズ』だってシットコムだ。しかし、シットコムに家族をテーマにしたものはかなり多く、郊外を舞台にしたものもかなり多い。『パパはなんでも知っている』や、前述した『奥様は魔女』、とりわけ本作では後半でディック・ヴァン・ダイク・ショー』が大きく取り上げられているが、この辺をザーッと広く攫ってパロディの題材としているというわけである。 

 

郊外の負の側面

 郊外化が進むことで当時の中流階級の生活が便利になり、消費の主体は女性と子供に移っていった。父親は朝早く車で出勤し、地域の主役はおもに主婦たちとなる。しかし、生活が豊かになる一方で、大量生産された住宅は皆ほとんど外観での見分けがつかず、住人たちの経済的な状況や階級などはほとんど差がないという、画一的、閉鎖的なコミュニティがたくさん形成されていた。

 シザーハンズ(1990)は、このアメリカの郊外の特徴をうまく抽出してファンタジーに仕上げた映画である。周囲と違うところがあれば怪しまれ、詮索されるというところを、手がハサミの人造人間(ジョニー・デップ)を主人公にすることで表現している。『ワンダヴィジョン』のヴィランであるアガサの「詮索好きな隣人」という設定は、まさにこのクリシェを踏襲したキャラクターだ。

 こうして書くとあからさまに暗くて怖いところのように聞こえるが、「郊外もの」の特徴はこういった怖さがすべて明るく穏やかな住宅地で起こるというところだ。アイラ・レヴィンの小説を原作にした『ステップフォード・ワイフ』(1975/2004リメイク)という映画があるが、不可解な出来事が「ハッピー」で塗りつぶされていく、郊外を舞台にした面白いサスペンスである。

 言うまでもなく、『ワンダヴィジョン』はこの辺りも、というか、この辺りこそがかなりしっかりとドラマの根底となっている。

 

ウェストビューに横たわる「幸せな郊外」の概念

 ワンダが作り出したウェストビューは、「普通でありたい、そうであったらよかったのに」という彼女の気持ちがベースになっている。東欧の国ソコヴィアで生まれ育ち戦争に巻き込まれ、それに関わっていたトニー・スタークへの恨みだけをエネルギーに双子の弟と共に生きてきた。ヒドラの実験でスーパーパワーを手に入れ、『ウルトロン』でヴィランとして登場した後にアベンジャーズの一員となる。苦労の多い人生だ。

 そんな中で、家族でディック・ヴァン・ダイク・ショー』を見ていた時間がワンダの幸せな記憶として描かれる。メリー・ポピンズのバート役で有名なディック・ヴァン・ダイクが60年代に主演し大ヒットしていたシットコムで、シットコムを制作するコメディ作家を主人公に仕事と家庭のドタバタ劇が繰り広げられる。

 これはもちろん、ウェストビューが「ワンダ・マキシモフプロデュース」であることに沿った設定である。街全体がワンダの超能力でコントロールされているウェストビューは、まったく普通ではない彼ら一家がなんとか「普通」に暮らすために作られ、デザインされたものだ。そこを郊外として周囲から隔絶させるために文字通りのバリアを貼り、住人たちはワンダの思い通りになるよう画一的で同じような人たちでなければならない。ドラマの後半ではワンダがバリアの範囲を大きく広げて、外にあったS.W.O.R.D.のキャンプが内部に飲み込まれてしまうが、内側に入った物や人は強制的に「ハッピー」なものに、笑顔に変換される。

 ワンダが「普通の幸せ」を求めて街をなんとかしようとすればするほど、ウェストビューの「普通」という「異常」さは増していく。この表裏一体とした感じが、「アメリカの郊外」という概念とよくシンクロしているのだ。決して当時の本物の郊外なのではなく、あくまでも画面の中のフィクションとしての「アメリカの郊外」。ワンダはなにも、過去に郊外で生活していたことがあるというわけではない。彼女の「郊外」イメージはすべて家族と画面越しに見ていたもので、ワンダの「幸せな郊外の生活」はそっくりそのままそれをコピーしたものなのである。

 それゆえに、街の外部から何かが侵入してくると、ドラマが突然「シットコム」の筋からふと外れる瞬間がやってくる。異物が混入して、街を維持するワンダの超能力に乱れが出た瞬間ということだ。一話の最後には色付きのドローンカメラが登場するが、そこではバストショットやミドルショットで固定されていた(シットコムにありがちな)画面から急にカメラが移動し始める。五話の『フルハウス』風のエンドクレジットでは、画面がシットコムのまま会話だけがどんどん筋を逸れていく。どちらも見ていて非常に不安になってくる。

 ワンダの作り上げたウェストビューはテレビのセットのようにハリボテで、見た目だけがあり中身がない。それは夫のヴィジョンもそうである。ワンダが見たくない、思い出したくない嫌なもの、自分を追い詰めようとするS.W.O.R.D.の車やエージェントは、すべて「ハッピー」なもので塗りつぶされる。ウェストビューは、「放送」されていた見た目の部分だけではなく、構造そのものがありとあらゆる点で「郊外」的な街なのである。

 

 

 と、ここまで「アメリカの郊外」という概念を中心に『ワンダヴィジョン』を考察してきた。書くにあたってドラマの後半を大まかに見返してみたが、あまりにも悲しかった『インフィニティ・ウオー』での二人の別れを九話かけて描き直した秀逸な作品だと思う。それだけに、ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』はこれを巻き戻したような感じになってしまった点が残念だった。特にサム・ライミの画づくりはすごくハマっていてよかったので、余計。


 しかし、80年代パートのオープニング『ファミリー・タイズ』なのはびっくりしてしまった。だって絶対フルハウスだと思ってた。マイケル・J・フォックスバック・トゥ・ザ・フューチャー(1985)とほとんど同時期に撮っていたシットコム(ファミリータイズ出演中にマーティ役が決まった)で、もう日本では見る手段がほとんど無い(と思う)ドラマなのでこれがあまり有名だという意識がなかった。私は『アイ・ラブ・ルーシー』も『奥様は魔女』も知識として知っているだけで見たことがなかったのだが、『ファミリー・タイズ』だけは知っていた。アメリカでは『フルハウス』と同じぐらいポピュラーなのかもしれない。

 →後で調べてみたら、日本で放送されていたシーズン3(の一部?)がDVDになっているようです。私は『ワンダヴィジョン』を見て『ファミリー・タイズ』のDVDを買うという、一見したら繋がりが不明の行動を取っていました。

 ちなみに、マイケル・J・フォックスの自伝「ラッキーマン」には、ドラマと映画を同時進行していた頃の大変な忙しさが本人の文章で綴られています。すごいよ。

 

命なきモノを愛する:二人のヴィジョンについて

 最後に、終盤で二人のヴィジョンが自問自答していた問題について話してこの記事を終わりにしたい。

 作中でワンダと結婚生活を送っていたヴィジョンは、ワンダの作り出した幻影だと最後にわかるわけだが、今作にはもう一人、黒幕であるS.W.O.R.D.のヘイワード長官が作り出した白いヴィジョン(ホワイト・ヴィジョン)も登場する。

 これは、ヘイワードが手に入れたヴィジョンの遺体(『インフィニティ・ウォー』でサノスに殺されたヴィジョン)をもとに知覚兵器として作られたものだ。作中の台詞によると、これはソコヴィア協定とヴィジョンの遺言に反するものらしい。ヘイワードはこの罪をワンダに着せようとしていたのである。S.H.I.E.L.D.もヒドラにズブズブだったわけだけどS.W.O.R.D.もダメダメだったのか……。

 ホワイト・ヴィジョンは身体とプログラムだけの存在だが、ワンダとの記憶を持っている幻影のヴィジョンは「テセウスの船」という命題を使ってホワイト・ヴィジョンに攻撃をやめさせることができた。「古い船の腐食した板をすべて取り去って、新しい板を組んだ船は、元の船と言えるか」「取り去った古い板で新しい船を作ったら、それは元の船なのか」という問いかけだ。

 答えは、どちらも元の船ではなく、またどちらも元の船である。記憶を持っている幻影のヴィジョンも、遺体から作られたホワイト・ヴィジョンも、どちらも単純なコピーではなく、またたったひとつの本物でもない。

 

スパーキー:「いかに偽物だったか」ではなく「いかに本物だったか」

 ウェストビューの構造が明らかになるに従って、ドラマではワンダの作り出したものがいかに不自然で、恐ろしく、不可解であるかということ、つまり「いかに偽物だったか」が演出される。というか私もここまでそう考察してきたのだが、この話の本質はそこではない。このドラマは、ワンダの作り出した幻影のヴィジョンが、いかに本物であったかという話なのだと思う。

 第五話は、双子のトミーとビリーが子犬を飼いたいと両親にねだり、飼い始めるものの犬は誤ってツツジの葉を食べて死んでしまう(まあこれもアガサの仕業なんですが)という話である。犬の名前は「スパーキー」だ。

 ティム・バートン1984年に作った短編映画『フランケンウィニーは、交通事故で愛犬を亡くした男の子が『フランケンシュタイン』よろしく電気ショックで犬を生き返らせるという話だ。蘇生した犬はもはや元の身体ではなく、布や他の毛皮でツギハギになっていて、首にボルトを嵌めていて、それをコンセントに繋いでエネルギーを得る。名前は「スパーキー」。ちなみにこれも郊外が舞台である。

 古いパーツが新しいパーツにすげ代わったスパーキーが、元のスパーキーと言えるのかどうかは、飼い主の少年が犬を愛することには関係ないのだ。

 「スパーキー」という名前の登場はそういうことを示唆している。ヴィジョンは機械で、「モノ」なのだ。ワンダの作ったヴィジョンはただの幻で、実体のない記憶の塊である。そして、それらはすべて等しくヴィジョンで、何ら問題のあることではない。彼らを「偽物」と呼ぶ理由にはならないのである。

 

おわりに

 正直、私が『ワンダヴィジョン』を見ていて一番驚いたのはここだった。10年近くキャラクターを知っているはずだったのに、初めて「ヴィジョンは作られた身体を持ったキャラクターである」ということを意識させられたからだ。『ウルトロン』や『インフィニティ・ウォー』でそのあたりは触れられていたはずなのに、なぜかあまり深く考えたことがなかった。

 ワンダとヴィジョンの間にあるものは、トイ・ストーリーとかピノキオ』(特にデルトロのピノキオ)みたいな側面があるもので、『ワンダヴィジョン』はそれを初めてしっかり指摘したドラマだった。「命なきモノを愛する愛」というか。本当に、MCUをこんな文脈で語る日が来るとは思っていなかったのだが、よくできた作品だと思う。

 白いヴィジョン、どこ行っちゃったんだろう。元気にしてるといいな。