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ひとり映画感想文集

夢のまちウェストビュー:郊外と身体から見る『ワンダヴィジョン』

 

はじめに

 2021年にディズニー+で配信された『ワンダヴィジョン』を「アメリカの郊外」という視点で見た感想です。ふせったーにざっと書いたものをそのまま載せていたのですがあまりに体裁が悪いことに気づいたので、もっと詳しく書いてここに投稿し直すことにします。

 当ブログ比でわりとごりごり考察しています。楽し〜。

 

 MCUマーベル・シネマティック・ユニバース)のフェーズ4は基本的に「お馴染みのキャラクターたちの『エンドゲーム』後」と「新キャラクターの紹介」で構成されているのだが、本作はそのワンダ・マキシモフ版である。

 本来だったらフェーズ4の三作目か四作目あたりに位置付けられ、最終話が配信された直後に『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』が公開されるというスケジュールだった。が、新型コロナウイルスが流行した影響でその辺りの順番が大きく変わってしまった。コロナ憎し。

 そんな事情で、トップバッターを飾るはずだった『ブラック・ウィドウ』の代わりにかなりの変化球ドラマがフェーズ4の幕開けとなったのである。

 

 私はこれを全話配信されるまで待ってから友達と通話しつつ同時再生して見たのですが、全てが不可解すぎて本当に7時間ぐらいずっと怯えていました。

 

目次

 

 

あらすじ

 ググってくれたらほぼわかるものだとは思うのだが、あらすじを簡単に紹介しようと思う。

 以下最後までしっかりネタバレしています。

 『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー(2018)で、ワンダはせっかく手に入れた恋人を無惨にもサノスに殺されてしまい、『エンドゲーム』(2019)で復讐のために戻ってくる。確かにアベンジャーズはサノスには勝ったが、だからと言ってヴィジョンが戻ってくるわけではない……という、この前提が既に不安でいっぱいだ。

 不安でいっぱいのはずなのに、本作は番組の形式自体がハチャメチャに陽気なシットコムとして始まる。第一話は50年代の『アイ・ラブ・ルーシー』、第二話は60年代の奥様は魔女(ピッタリすぎだろ)、第三話は70年代『ゆかいなブレディ家』……と、画面サイズからキャラクターの風貌、街の風景、画質までもが一話ごとに変わっていき、なぜそうなのかという説明が途中まで一切されないままドラマが進行していくのである。怖すぎる。

 ワンダとヴィジョン夫妻が住んでいる街は「ウェストビュー」という名前なのだが、実はワンダが実在する同名の街を(住人も含めて)テレキネシスで丸ごと操り、彼女の理想であるアメリカのシットコムのようなハッピーな生活ができる、普通の郊外住宅地」に変貌させていた。ウェストビューは外側から見るとバリアのようなもので覆われていて、S.H.I.E.L.D.の後続の組織であるS.W.O.R.D.がこれを調査している……という具合だ。エヴァン・ピーターズというサプライズキャストなども挟みながら(食ってたピザ放り投げるところだった)、話が進むにつれて事態はどんどん悪い方向へ転がっていく。

 

 簡単にと言いながらかなりガッツリ書いてしまったが、私が注目したいのはこの「郊外住宅地」という点だ。

 

 『ワンダヴィジョン』は、アメリカの高度経済成長とともに同国のコンテンツに溢れていった「郊外」を舞台にしたシットコムのざっくりとした変遷が追える、とてもおもしろいドラマである。まさかMCUの作品をこんな文脈で語る日が来るとは思ってもみなかったのだが、でも本作はすごく優れた「郊外モノ」なのだ。

 

『ワンダヴィジョン』の郊外

 「郊外モノ」というのは私が勝手にそう呼んでいるだけなのだが、50年代のアメリカで急速に発達した「郊外」という特有の場所を舞台にした映画やドラマのことだ。アメリカのコンテンツには郊外を題材にした作品がとても多いし、今でもそこそこ見かけることがあり、『ワンダヴィジョン』はまさにそれである。

 

郊外とは

 郊外(surburb)とは、高度経済成長期のアメリカが住宅政策に力を入れたことによって発達した、都会から離れた住宅地のことである。家電や車が中流階級でも安価に手に入るようになったのと同じように、プレハブ住宅も手の届く価格で量産され、たくさん建てられた。都会の喧騒から離れて、緑の多い郊外で子供を育てるというライフスタイルは当時の新しいアメリカン・ドリームとなったのである。

 こうした「幸せな生活」イメージは雑誌や映画、テレビ番組で大量に再生産された。その一つがシチュエーション・コメディ、いわゆるシットコムだ。

 基本的には一話完結で、同じ場所や人物の関係から巻き起こるドタバタ劇を約30分に収めたもののことだが、別に全てのシットコムがファミリーものというわけではない。『フルハウス』もシットコムだが、『ビッグバン・セオリー』や『フレンズ』だってシットコムだ。しかし、シットコムに家族をテーマにしたものはかなり多く、郊外を舞台にしたものもかなり多い。『パパはなんでも知っている』や、前述した『奥様は魔女』、とりわけ本作では後半でディック・ヴァン・ダイク・ショー』が大きく取り上げられているが、この辺をザーッと広く攫ってパロディの題材としているというわけである。 

 

郊外の負の側面

 郊外化が進むことで当時の中流階級の生活が便利になり、消費の主体は女性と子供に移っていった。父親は朝早く車で出勤し、地域の主役はおもに主婦たちとなる。しかし、生活が豊かになる一方で、大量生産された住宅は皆ほとんど外観での見分けがつかず、住人たちの経済的な状況や階級などはほとんど差がないという、画一的、閉鎖的なコミュニティがたくさん形成されていた。

 シザーハンズ(1990)は、このアメリカの郊外の特徴をうまく抽出してファンタジーに仕上げた映画である。周囲と違うところがあれば怪しまれ、詮索されるというところを、手がハサミの人造人間(ジョニー・デップ)を主人公にすることで表現している。『ワンダヴィジョン』のヴィランであるアガサの「詮索好きな隣人」という設定は、まさにこのクリシェを踏襲したキャラクターだ。

 こうして書くとあからさまに暗くて怖いところのように聞こえるが、「郊外もの」の特徴はこういった怖さがすべて明るく穏やかな住宅地で起こるというところだ。アイラ・レヴィンの小説を原作にした『ステップフォード・ワイフ』(1975/2004リメイク)という映画があるが、不可解な出来事が「ハッピー」で塗りつぶされていく、郊外を舞台にした面白いサスペンスである。

 言うまでもなく、『ワンダヴィジョン』はこの辺りも、というか、この辺りこそがかなりしっかりとドラマの根底となっている。

 

ウェストビューに横たわる「幸せな郊外」の概念

 ワンダが作り出したウェストビューは、「普通でありたい、そうであったらよかったのに」という彼女の気持ちがベースになっている。東欧の国ソコヴィアで生まれ育ち戦争に巻き込まれ、それに関わっていたトニー・スタークへの恨みだけをエネルギーに双子の弟と共に生きてきた。ヒドラの実験でスーパーパワーを手に入れ、『ウルトロン』でヴィランとして登場した後にアベンジャーズの一員となる。苦労の多い人生だ。

 そんな中で、家族でディック・ヴァン・ダイク・ショー』を見ていた時間がワンダの幸せな記憶として描かれる。メリー・ポピンズのバート役で有名なディック・ヴァン・ダイクが60年代に主演し大ヒットしていたシットコムで、シットコムを制作するコメディ作家を主人公に仕事と家庭のドタバタ劇が繰り広げられる。

 これはもちろん、ウェストビューが「ワンダ・マキシモフプロデュース」であることに沿った設定である。街全体がワンダの超能力でコントロールされているウェストビューは、まったく普通ではない彼ら一家がなんとか「普通」に暮らすために作られ、デザインされたものだ。そこを郊外として周囲から隔絶させるために文字通りのバリアを貼り、住人たちはワンダの思い通りになるよう画一的で同じような人たちでなければならない。ドラマの後半ではワンダがバリアの範囲を大きく広げて、外にあったS.W.O.R.D.のキャンプが内部に飲み込まれてしまうが、内側に入った物や人は強制的に「ハッピー」なものに、笑顔に変換される。

 ワンダが「普通の幸せ」を求めて街をなんとかしようとすればするほど、ウェストビューの「普通」という「異常」さは増していく。この表裏一体とした感じが、「アメリカの郊外」という概念とよくシンクロしているのだ。決して当時の本物の郊外なのではなく、あくまでも画面の中のフィクションとしての「アメリカの郊外」。ワンダはなにも、過去に郊外で生活していたことがあるというわけではない。彼女の「郊外」イメージはすべて家族と画面越しに見ていたもので、ワンダの「幸せな郊外の生活」はそっくりそのままそれをコピーしたものなのである。

 それゆえに、街の外部から何かが侵入してくると、ドラマが突然「シットコム」の筋からふと外れる瞬間がやってくる。異物が混入して、街を維持するワンダの超能力に乱れが出た瞬間ということだ。一話の最後には色付きのドローンカメラが登場するが、そこではバストショットやミドルショットで固定されていた(シットコムにありがちな)画面から急にカメラが移動し始める。五話の『フルハウス』風のエンドクレジットでは、画面がシットコムのまま会話だけがどんどん筋を逸れていく。どちらも見ていて非常に不安になってくる。

 ワンダの作り上げたウェストビューはテレビのセットのようにハリボテで、見た目だけがあり中身がない。それは夫のヴィジョンもそうである。ワンダが見たくない、思い出したくない嫌なもの、自分を追い詰めようとするS.W.O.R.D.の車やエージェントは、すべて「ハッピー」なもので塗りつぶされる。ウェストビューは、「放送」されていた見た目の部分だけではなく、構造そのものがありとあらゆる点で「郊外」的な街なのである。

 

 

 と、ここまで「アメリカの郊外」という概念を中心に『ワンダヴィジョン』を考察してきた。書くにあたってドラマの後半を大まかに見返してみたが、あまりにも悲しかった『インフィニティ・ウオー』での二人の別れを九話かけて描き直した秀逸な作品だと思う。それだけに、ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』はこれを巻き戻したような感じになってしまった点が残念だった。特にサム・ライミの画づくりはすごくハマっていてよかったので、余計。


 しかし、80年代パートのオープニング『ファミリー・タイズ』なのはびっくりしてしまった。だって絶対フルハウスだと思ってた。マイケル・J・フォックスバック・トゥ・ザ・フューチャー(1985)とほとんど同時期に撮っていたシットコム(ファミリータイズ出演中にマーティ役が決まった)で、もう日本では見る手段がほとんど無い(と思う)ドラマなのでこれがあまり有名だという意識がなかった。私は『アイ・ラブ・ルーシー』も『奥様は魔女』も知識として知っているだけで見たことがなかったのだが、『ファミリー・タイズ』だけは知っていた。アメリカでは『フルハウス』と同じぐらいポピュラーなのかもしれない。

 →後で調べてみたら、日本で放送されていたシーズン3(の一部?)がDVDになっているようです。私は『ワンダヴィジョン』を見て『ファミリー・タイズ』のDVDを買うという、一見したら繋がりが不明の行動を取っていました。

 ちなみに、マイケル・J・フォックスの自伝「ラッキーマン」には、ドラマと映画を同時進行していた頃の大変な忙しさが本人の文章で綴られています。すごいよ。

 

命なきモノを愛する:二人のヴィジョンについて

 最後に、終盤で二人のヴィジョンが自問自答していた問題について話してこの記事を終わりにしたい。

 作中でワンダと結婚生活を送っていたヴィジョンは、ワンダの作り出した幻影だと最後にわかるわけだが、今作にはもう一人、黒幕であるS.W.O.R.D.のヘイワード長官が作り出した白いヴィジョン(ホワイト・ヴィジョン)も登場する。

 これは、ヘイワードが手に入れたヴィジョンの遺体(『インフィニティ・ウォー』でサノスに殺されたヴィジョン)をもとに知覚兵器として作られたものだ。作中の台詞によると、これはソコヴィア協定とヴィジョンの遺言に反するものらしい。ヘイワードはこの罪をワンダに着せようとしていたのである。S.H.I.E.L.D.もヒドラにズブズブだったわけだけどS.W.O.R.D.もダメダメだったのか……。

 ホワイト・ヴィジョンは身体とプログラムだけの存在だが、ワンダとの記憶を持っている幻影のヴィジョンは「テセウスの船」という命題を使ってホワイト・ヴィジョンに攻撃をやめさせることができた。「古い船の腐食した板をすべて取り去って、新しい板を組んだ船は、元の船と言えるか」「取り去った古い板で新しい船を作ったら、それは元の船なのか」という問いかけだ。

 答えは、どちらも元の船ではなく、またどちらも元の船である。記憶を持っている幻影のヴィジョンも、遺体から作られたホワイト・ヴィジョンも、どちらも単純なコピーではなく、またたったひとつの本物でもない。

 

スパーキー:「いかに偽物だったか」ではなく「いかに本物だったか」

 ウェストビューの構造が明らかになるに従って、ドラマではワンダの作り出したものがいかに不自然で、恐ろしく、不可解であるかということ、つまり「いかに偽物だったか」が演出される。というか私もここまでそう考察してきたのだが、この話の本質はそこではない。このドラマは、ワンダの作り出した幻影のヴィジョンが、いかに本物であったかという話なのだと思う。

 第五話は、双子のトミーとビリーが子犬を飼いたいと両親にねだり、飼い始めるものの犬は誤ってツツジの葉を食べて死んでしまう(まあこれもアガサの仕業なんですが)という話である。犬の名前は「スパーキー」だ。

 ティム・バートン1984年に作った短編映画『フランケンウィニーは、交通事故で愛犬を亡くした男の子が『フランケンシュタイン』よろしく電気ショックで犬を生き返らせるという話だ。蘇生した犬はもはや元の身体ではなく、布や他の毛皮でツギハギになっていて、首にボルトを嵌めていて、それをコンセントに繋いでエネルギーを得る。名前は「スパーキー」。ちなみにこれも郊外が舞台である。

 古いパーツが新しいパーツにすげ代わったスパーキーが、元のスパーキーと言えるのかどうかは、飼い主の少年が犬を愛することには関係ないのだ。

 「スパーキー」という名前の登場はそういうことを示唆している。ヴィジョンは機械で、「モノ」なのだ。ワンダの作ったヴィジョンはただの幻で、実体のない記憶の塊である。そして、それらはすべて等しくヴィジョンで、何ら問題のあることではない。彼らを「偽物」と呼ぶ理由にはならないのである。

 

おわりに

 正直、私が『ワンダヴィジョン』を見ていて一番驚いたのはここだった。10年近くキャラクターを知っているはずだったのに、初めて「ヴィジョンは作られた身体を持ったキャラクターである」ということを意識させられたからだ。『ウルトロン』や『インフィニティ・ウォー』でそのあたりは触れられていたはずなのに、なぜかあまり深く考えたことがなかった。

 ワンダとヴィジョンの間にあるものは、トイ・ストーリーとかピノキオ』(特にデルトロのピノキオ)みたいな側面があるもので、『ワンダヴィジョン』はそれを初めてしっかり指摘したドラマだった。「命なきモノを愛する愛」というか。本当に、MCUをこんな文脈で語る日が来るとは思っていなかったのだが、よくできた作品だと思う。

 白いヴィジョン、どこ行っちゃったんだろう。元気にしてるといいな。