お足元が悪い中

ひとり映画感想文集

ジェームズ・ボンドの鮮やかな上昇:「下降」と「上昇」から見るクレイグ・ボンド、または『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(架空)考察

 
 
 『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』を観ました。もう三回観ました。初日とその翌日に一回づつ、あとさっきも観てきましたが、何から話し始めればいいのかまだわかりません。
 何を言っているのかわからないかもしれませんが、去年頒布した映画考察本にNTTDの架空評論を書いて載せていました。延期されている間に過去シリーズに全て目を通して研究書の一冊でも読めば、なんかもう観てなくても感想が書けるんじゃないかなと思ったわけです(詳しい経緯は下に)。今回は、その答え合わせも兼ねてNTTDの個人的な考察を書きます。
 以下は2020年9月に書いた当時の原稿ほとんどそのままの文章を、NTTD観賞後に追記したものです。答え合わせを兼ねているので、追記の部分はこんな風にイタリック体にして、そうとわかる形で書いていこうと思います。ダニエル・クレイグのボンド映画を一本ずつ振り返り、どさくさに紛れて観ていないNTTDを振り返るという構成です。本当に、皮肉だけど延期される時間でこんなに自分にとって存在が大きくなるとは思わなかった。
 いろいろ書き足したら最終的に1万5千字ほどになってしまったので、ジャンプできる目次をつけました。お好きなところだけ読んでください。
 
目次

0.ことの経緯

1.『カジノ・ロワイヤル』(2006)

2.『慰めの報酬』(2008)

3.『スカイフォール』(2012)

4.『スペクター』(2015)

5.『ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2021)※追記あり

 
 
 
 

0.ことの経緯

 
 ここで、改めてこの記事を書くことになった経緯を話しておこうと思う。
 それまでにも製作の遅れで公開時期はどんどん遅れていたらしいのだけど、なんだかんだあって2020年4月に公開が予定されていた『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2020、フクナガ、以下NTTD)の公開延期が発表されたのは、2020年の3月上旬のことだった。前年の12月に初めて『スカイフォール』を観たばかりだった私は至極複雑な気持ちになった。そりゃあ『NTTD』は早く観たいけど、4月までに過去の20数本を観返す時間はどう考えてもないので深掘りはとっくに諦めていたところだったからだ。でも11月だって。あと7ヶ月もあるんなら20数本はおろか、ダニクレの映画だって全部観られるだろう。過去の評論とか読むの面白そうだし、その辺調べたら過去のボンド映画で考察とか書いて、新作公開されたら比較して……そこまで調べて書けたらもう観たようなもん(?)なんじゃない?(??) 最早公開前に(?)考察が書けるのでは?(???)
    追記:※このあとさらに2回延期されることをまだ知らない状態で書いています。
 というわけで、結局過去の評論を当たる時間まではなかったが、一応過去の作品を鑑賞し、『スカイフォール』公開当時の論文をちょっとだけ読み、恐らく日本語で読める唯一の研究書であろうジェームズ・チャップマンの『ジェームズ・ボンドへの招待』にざっと目を通すぐらいはできた。これも前章に書いたことだが、例え観たことのない映画の記事を書くのが目的とはいえ、そのために観た映画やそれについて考えたことは全く「架空」ではないということをひしひしと感じた。全然無駄じゃない。
   追記:結構色々手を尽くして調べたつもりだったのだけど、この一冊しか手に入らなかった。日本語で読めるボンド映画の研究書、あったら私に教えてください。
 ここでは、ダニエル・クレイグのボンドと「下降と上昇」についての話をしようと思う。今のところこの文章の仮題には「評論」という言葉がついているのだが、ひょっとしたら後で「手紙」とか「願望」とかに変えてしまうかもしれない。私は今から、『カジノ・ロワイヤル』(2006、キャンベル)から『NTTD』までを振り返るにあたり、「下に降りること/上に昇ること」という非常に曖昧なものでそれぞれが繋がっているかのように語ろうとしている。同一の監督が撮ったわけでもない5本の商業映画(うち一本は未見)を語る軸としてはあまりにも弱すぎることは重々承知である。それでも私はどうしても、『スカイフォール』まで下降し続けたクレイグのボンドが、同作の後半から『NTTD』にかけて「上昇」していく、「浮上」していくというイメージを捨てることができないのだ。そしてここで書こうとしているのは「架空」評論だ。つまり上のタイトル部分に「架空」の字が割と大きめに入ることで、読み手との共犯関係が生まれるはずなのだ。「下降していたジェームズ・ボンドに上昇してほしい」という私の願望が混入した、ある程度夢みがちな文章を書くなら、今しかない。
 以下は、ダニエル・クレイグのボンド映画を駆け足で一本ずつ振り返り(現実)、どさくさに紛れてNTTDも振り返る(幻覚)に入るという構成になっている。いいですね、皆さん、特に最後のセクション、共犯関係ですからね。言いましたよ。
 
 

カジノ・ロワイヤル』(2006)

 
 The Bitch is Dead
(裏切り女は死んだ)
 
 
 
 『カジノ・ロワイヤル』は、映画シリーズではこれまで登場することがなかったボンドのダブルオー昇格の場面から始まる。ダブルオーの条件である「2人目の殺人」の様子が、1人目を殺すフラッシュバックとともに描かれる。個人的に考える『カジノ・ロワイヤル』の面白さは、冒頭で提示されるフィルム・ノワールのイメージを最後まで崩さずにボンド映画の文脈に当てはめたことだ。白黒でざらついた加工が施された画面に、完璧な角度で置かれた引き出しの拳銃、そしてフラッシュバックなど、1920年代にフランスで誕生し40年代にアメリカに輸入された殺人メロドラマのジャンルを想起させるショットが沢山出てくる。ヴェスパー・リンドはボンド映画の範疇で言えば「ボンドガール」であることに間違いはないが、最終的にボンドを「騙し」、「狂わせた」ファム・ファタルであることもまた確かだろう。
 ダニエル・クレイグのボンド映画は至極真面目なものばかりだ。前任のピアース・ブロスナンのボンド映画を見る限り、ブロスナンはどちらかというとロジャー・ムーアのような軟派なイメージであったことがわかる。90年代後半から始まったブロスナンのボンドは、周囲が進化する中で未だにスーツのポケットからチーフを覗かせ、ホテルで美女とシャンパンを飲む「ジェームズ・ボンド」っぷりを見せていた。クレイグ・ボンドの一作目がフィルム・ノワールというハードボイルドもののパロディから始まるというのは、ブロスナンのボンドとの差別化を狙ったものであり、クレイグのボンド映画がシリアスなものになるという一種の宣言とも考えられる。
 では、クレイグ・ボンドの「シリアスさ」とはどこからやってくるのか。突飛な秘密兵器ではなくパソコンとモニターに囲まれたQ課が象徴するように、ガジェットやアクションがより本物志向になったことはもちろん主な理由として挙げられる。ここでは、職務と個人的な感情の間での葛藤に注目してみようと思う。「私が人を殺すのは政府から命が下った時だけだ」と言うロジャー・ムーアとは対照的に(『黄金銃を持つ男』(1974、ハミルトン))、ティモシー・ダルトンの2本のボンド映画で顕著だったこの種の葛藤は、主に『カジノ・ロワイヤル』と『慰めの報酬』(2008、フォースター)に引き継がれている。ダルトンの最後の作品『消されたライセンス』(1989、グレン)では、ボンドは親友の仇を取ろうと行動したことをMに「私情を挟むな」と言われ、職務を拒否してMI6の外で行動するのだ。
 クレイグの最初の2作品でボンドが抱える葛藤の中心に位置するのはヴェスパー・リンドである。作中では、ヴェスパーの死は「下降」というモチーフによって印象づけられる(のちにボンド自身の死にも関連づけられる)。これは勿論ヴェスパーがクライマックスで鉄の檻に入ったまま水に沈んでしまう場面のことでもあるが、『カジノ・ロワイヤル』の下降の場面はここだけではない。ル・シッフルの資金を回収しに来た組織に諜報員であることがバレて、ヴェスパーの身にも危険が及ぶ場面があるが、ここでのボンドは非常階段を下りながら男二人を相手にする。階段を降りていくに従ってボンドの体にはどんどん傷が付いていき、更に「下降」に巻き込まれて怯えたヴェスパーをボンドはバスルームで抱きしめる。ここで二人がシャワーの水に打たれていることはヴェスパーが水中で死ぬことを示唆しているとも取れるが、ともかく2人はここで心の繋がりを得るのである。
 ヴェスパーと恋に落ちたボンドは一度Mにダブルオーを辞職する旨を連絡するが、彼女に裏切られ命を助けることができなかったとわかると、ル・シッフルの背後に組織がいることを上に報告するという、ダブルオーとしての「職務」を遂行する。ヴェスパーを失ったボンドにMは「If you do need more time…(もし時間が必要なら…)」と聞くが、彼は「Why should I need more time?  The jobs done. And the bitch is dead.(なぜ? 仕事は終わった。裏切り女は死んだ)」と返す。この場面で「007」という仮面を手に入れたクレイグのボンドは、ようやく三揃いのスーツを着て銃を手にし、地面に伏したミスター・ホワイトに「ボンド。ジェームズ・ボンド」と名乗ることができるのだ。
 
 

慰めの報酬』(2008)

 
I wish I could get you free. But your prison is in there.
(あなたを自由にできたらいいのに。でも地獄はここにあるのね)
 
 
 
 撮影がトラブル続きだったことや、「ボンド映画」の文脈からは大きく外れたストーリーであることは確かだが、『慰めの報酬』はもっと評価されていいのではないかと思う。本作のボンドガールとボンドの関係は通常のそれとは全く異なり、クレイグのボンド映画の中では最も「ボンド映画」らしくない作品である。
 『慰めの報酬』のテーマは一貫して「復讐」である。ボンドは『カジノ・ロワイヤル』で対峙したル・シッフルの背後にいる組織を探り、最終的にボリビア軍事政権のトップであったメドラーノ将軍と、NPO法人を騙って彼を支援するミスター・グリーンに辿り着く。この間にボンドは手がかりとなる二人のターゲットを生け捕りにせず殺してしまい、Mから何度も注意を受ける。
 前作『カジノ・ロワイヤル』で「007」という仮面を手に入れたボンドだが、『慰めの報酬』はその仮面を苦労して顔につけるまでの物語だと捉えていいだろう。明らかにヴェスパーを失ったことを引きずっていて、ル・シッフルの背後にいる組織を追うことで、彼自身が復讐するべき相手が誰なのかを探しているのだ。
 本作の「下降」は、中盤でミスター・グリーンの追っ手から逃れる2人が乗った飛行機が追撃される場面であり、ここではボンドと、本作のボンドガールであるカミーユが心の繋がりを得る場所として登場する。ボンドはパラシュートを背負わせたカミーユと一緒に飛行機から飛び降り、ボリビアの洞窟の中に落ちる。パラシュートを開く位置が低すぎたせいで2人は地面に墜落するような形になってしまう。出口を探す傍らの二人の会話で、カミーユがこの一件に関わることになった理由が明かされる。
 カミーユはボンドと「復讐」という一点のみで繋がった存在であり、彼らはそれゆえに強く繋がっているが決して結ばれない。メドラーノ将軍に父親を射殺され、母と姉をレイプされ殺されたカミーユは復讐を強く望んでいる。クライマックスで二人はミスター・グリーンの施設に入り込み、ボンドはグリーンと、カミーユはメドラーノ将軍と対峙する。全編を通して、ボンドは彼女の復讐を止めたり肩代わりしたりするのではなく、同じ気持ちを抱えた者として彼女を後押しする。自分が知らないうちに復讐の機会を邪魔していたことを知って「すまなかった」と謝り、カミーユに「人を殺したことがあるか?」と銃の使い方と殺人の心得を教えるのだ。
 2人が別れる場面で、カミーユはボンドが未だ復讐を果たしていないことに対してこう呟く。「I wish I could get you free. But your prison is in there.(あなたを自由にできたらいいのに。でも地獄はここにあるのね)」ここでボンドは彼女にキスをするが、これまでのボンドとボンドガールのキスシーンとは文脈が異なることは明らかだろう。ボンドがカミーユの復讐に手を出さなかったように、彼らは互いが互いを救えないことを理解しているが故に結ばれ得ない2人なのである。
 『慰めの報酬』は、ボンドが諜報員の仮面を完全に自分のものとする場面で終わる。ボンドはヴェスパーを騙した男(彼の復讐の相手)をロシアで追い詰めるが、殺さなかった。身柄はMI6が拘束し、彼は個人的な復讐ではなくダブルオーとしての職務を全うしたことになる。その場にいたMが「Bond, I need you back(ボンド。復職して)」と言うと、彼は「I never left.(いつ離れました?)」と返す。
 『カジノ・ロワイヤル』『慰めの報酬』共に、「下降」はボンドの諜報員としての仮面と個人的な感情とが矛盾する場面で表れる。この「下降」は『スカイフォール』でやや意味を変えるもののピークに達し、同作をきっかけに『NTTD』に向かってボンドがこれらの感情に整理をつける「上昇」の描写へと変化していく。
 

スカイフォール』(2012)

 
I always hated this place!
(こんな家!)
 
 
 『スカイフォール』から、クレイグのボンドは大きく「終わり」が意識された作風になっていく。40代後半になったクレイグを見て誰もが思うこと、つまり、彼がいつまでボンドを演じ、次は誰になるのかという「世代交代」の気配が作中にも大きく反映されている。クレイグのボンドが「終わり」に向かっていく最初の作品である本作と次作の『スペクター』は、これまで大きく触れられることがなかったボンドの出生についての物語である。この「終わり」についての個人的な考察は、以前『クレイグ・ボンドを語るための思考実験』に書いたので、ここでは深く触れないことにする。
 
 『スカイフォール』は、誤射されて川に落ちたボンドの「下降」(=死)から始まる。「水中に落ちる」という描写は『カジノ・ロワイヤル』のヴェスパーの死(と、それを中心に据えたボンドの葛藤)を想起させるのは勿論だが、本作ではどちらかというとボンドの台詞にもある「Back in time(時を遡るんです)」というニュアンス、もしくは直接/象徴的な「死」の意味を含んでいると考えられよう。ヴェスパーの死は今や6年前の出来事であり、ボンドとMが最終的に辿り着くスカイフォールは、さらに遡った場所にあるボンドの出生地だからだ。
 クレイグのボンド映画の過渡期にあたる本作では、細かい「下降」と「上昇」が繰り返される。冒頭の落下、上海でのエレベーターの上昇とビルからの落下(ここではボンドは落とす側である)、マカオのカジノでの橋の下への落下(無事戻ってくる)、地下鉄への下降と地上への上昇、そしてスカイフォールの屋敷にある隠し通路への下降と地上への上昇。最も顕著なのは、シルヴァの追っ手に囲まれたボンドが湖の氷を撃って自ら「落下」し、閃光弾と共に自分の力で水面まで戻ってくる場面だろう。
 冒頭の川への「落下」は、歳を重ねたボンド(またはM)が「古いもの」の象徴となるきっかけであった。一度「死んだ」「終わった」ボンドは、前述の湖の場面で本当の意味での「Resurrection(復活)」を遂げる。Mを看取った後の場面が(おそらく庁舎の)屋上という高い位置にある場所で、その後作中で「下降」の描写はないことにも注目したい。
 作中では「古いもの」「新しいもの」の対比が繰り返し行われる。本作での「新しいもの」の象徴は役者の年齢を大幅に下げたボンドよりも年下のQで、彼らが美術館で出会う場面ではシンメトリーの構図によってそれが表されている。Qとマネーペニーが『カジノ・ロワイヤル』と『慰めの報酬』に登場しなかった理由の一つとして考えられるのは、クレイグのボンド映画が「真面目」さを売りにしたものであったからということだ。それまでのシリーズではこの二人はコメディリリーフとして登場することがほとんどであった。『スカイフォール』で再登場したこの二人はこれ以降も確かに雰囲気を柔らかくするような作用を持たされているが、特にベン・ウィショーのQはクレイグのボンドと並べられることで、ボンドが体現するマスキュリニティを撹乱する、もしくは幅を大きく広げる役割を持たされていると考えられよう。
 『スカイフォール』のラストシーンは、新生Mとなったマロリーのオフィスでの場面である。前任のMのオフィスは白を基調とした現代的なデザインのものだったが、マロリーのそれはかつてバーナード・リーがMを務めていた時代の古典的なものに変わっている。古いオフィスに男二人が立っている様子は時代が逆行してしまったように見えるが、Mという極めて重要なポストが交代したことはこれから先の大きな変化の兆しとも取ることが出来る。マネーペニーの台詞「Old dogs, new tricks」が体現されていると考えられよう。ボンドは本作で自らの過去への「下降」の旅を終えて、あまつさえ過去の象徴であるスカイフォールの屋敷を「I always hated this place(こんな家!)」と言ってダイナマイトで爆破までしてしまう。過去への「下降」の旅が水を介して行われるものであることを考えると、前2作でのヴェスパーが中心にある葛藤とは一度ここで決別したと考えられるのである。
 

『スペクター』(2015)

 
 I have. There’s just one thing I need.
(ひとつ忘れ物をしてね)
 
 『スペクター』では、さらにボンドの出生にまつわるエピソードが登場する。シリーズを通してボンドの戦う相手であり続けている組織「スペクター」の首領、ブロフェルドがボンドの異母兄弟であるという設定も登場するが、宿敵が兄弟であることに対する葛藤は全く見られない。本作は、『スカイフォール』で復活を果たしたボンドの個人史を締めくくる物語である。
 本稿の文脈に『スペクター』を乗せて考えると、本作のボンドは「下降」を自分のものとしていることがわかる。『スペクター』には冒頭とクライマックスに2つの大掛かりな「下降」の場面がある。冒頭、前任のMの遺言に従ってメキシコでターゲットを狙撃したボンドは、爆発した向かいの建物の倒壊に巻き込まれる。割れた屋根に捕まるが彼は自分から手を離し、建物が崩れる中で足場を探しながら落ちていき、最後はたまたま壊れたソファの上に収まる。
 また、クライマックスでは、旧SIS本部に仕掛けられた爆弾が爆発する間際になって本作のボンドガールであるマドレーヌが捕われているところを見つけ出し、先の爆発で開いた穴から彼女を抱えて飛び降りる。最下部にはネットが張ってあり、ふたりは無事脱出に成功する。この2つの場面からわかるように、ボンドにとって今や「下降」は死を意味するものではなくなっている。彼はもう落ちても大丈夫なのだ。
 さらに、オーペルハウザーを捕らえた後、ラストシーンでボンドはひとりQ課に現れる。QのラボはMI6の本部からは離れた地下にあることが前半で説明される通り、ボンドはエレベーターを降りてQの元にやってくる。「Bond? What are you doing here? I thought you’ve gone!(ボンド? 何してるんですか? もう辞めてしまったのかと)」というQに、ボンドは「I have. There’s just one thing I need(ああ。ひとつ忘れ物をしてね)」と答える。
 この、Qの元へ行く場面が本作での最後の「下降」である。『スカイフォール』では家それ自体、『スペクター』ではその延長線上の存在であるブロフェルドという自らの重りを全て取り払い、身軽になったボンドは今や下降も上昇も思いのままなのだ。前作で大破させてしまったものの、Qが復活させたアストン・マーチンDB5はまるで鎖が切れたように走り出し、ボンドはマドレーヌとともにロンドンを飛び去ってゆく。
 
   追記:ここから下が書いた当時は完全に幻覚でした。追記で答え合わせしていきます。
 

『ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2021)

 
It’s hard to tell the good from bad, villains from heroes these days.
(最近はものの良し悪しも、ヴィランかヒーローかも分かり難いから)
 
追記:今ここに台詞から取った小見出しをつけ直すなら、やっぱりI know, I know(ああ、僕の眼だ)かなあ。
 
 
 
 クレイグの最後の作品『ノー・タイム・トゥ・ダイ』は、通算25作目のボンド映画でもある。前回大きな節目となった20本目の『ダイ・アナザー・デイ』(2002、タマホリ)がそうだったように、アニバーサリー作品となる本作は過去のシリーズへの目配せが非常に多い。一つ一つを振り返るのはこれよりもはるかに詳しい記事が沢山あるので控えておくが、特にクレイグの作品に登場した描写にある程度の意味が込められているのは確かだろう。
 
 
   追記:オープニング・クレジットのシークエンスはクレイグ版OPの総まとめみたいな感じなのかなと予想していたけど、やっぱり25作目の記念の意味があるのか『ドクター・ノオ』(1962、ヤング)が大きくフューチャリングされていた(カラフルな丸)。物語に関するモチーフが万華鏡のように映されるのは『スカイフォール』と『スペクター』でシンメトリーを多く使ったサム・メンデスのボンド映画から。プサイを持った(プサイということはあれは)ポセイドン像(かな?)が崩れ落ちる砂の表現は『慰めの報酬』のオープニングの砂丘が連想される。
   『慰めの報酬』の砂丘は例によって巨大な女体に変換されていたけど、今回の砂丘はただの砂である。ちなみに、クレイグ・ボンドの最初の作品『カジノ・ロワイヤル』では、(確か)オープニング・シークエンスに女体が出てこない(逆に言えばそれ以外は出てくる)が、NTTDのオープニングは登場する身体が著しくアップで撮られていて、男女どちらの身体なのかぱっと見では判断がつかないように感じた(とは言え、臍が大写しになるショットで「ああやっぱり女体なのかな」とは思ったけど)。
   丸い形はガンバレル・シークエンス(ボンドが銃口カメラに向かって発砲するシークエンス)のようにボンド映画それ自体の意味も持つけれど、今回はクライマックスでボンドが開ける天井の扉の形や、DNAの螺旋状の配列を上から見た形でもある。
 
 
 『スカイフォール』と『スペクター』の2作品は、英雄の死と復活、葛藤、終わりを描いたものであった。本作はそういった意味で、「続き」というよりはクレイグのボンドが「終わった」後の物語だと表現した方が正しいだろう。『カジノ・ロワイヤル』から『スペクター』までは、監督や脚本家が交代してはいるものの、明確に「続き」の姿勢が取られていた。ル・シッフルからオーペルハウザー(ブロフェルド)までがスペクターという一つの組織に繋がっているというだけではなく、それぞれのヴィランがボンドの個人的な葛藤や復讐と直接的な繋がりがあるという二つの意味においてである。本作のヴィランであるサフィンは、マドレーヌを攻撃するためにボンドに接触するという点で、これまでの悪役とは文脈が違うのは確かだろう。
 
 
   追記:「『スペクター』であんなにちゃんと「終わった」のに、あれ以上何を続けるんだ」と思っていたから、ある程度独立した話になるんだろうなと思ってこう書いていた。だけどそれも違って、ストーリーとしてはかなり明確な「続き」だった。(私の記憶が合っていれば)NTTDが公開された今、これでクレイグ・ボンドは初めから終わりまで全て話が繋がっている初めてのボンド映画になった。そしてそれはたぶん、クレイグのボンドが「個」として描かれ続けていたこととかなり関係が深いのだろうと思う。
 
 
 本作で強調されるのは、これまで個人的な葛藤と戦い続けてきたクレイグのボンドが完全な「公僕」として最後の任務を遂行するという点だ。特にシルヴァがそうだったように、サフィンは作中で確かにボンドと対比され、「鏡を見ているようだ」と自分とボンドがいかに似たもの同士であるかを語りさえするが、ボンド本人と個人的な繋がりがあるわけではない。ジャマイカで再会した旧友フェリックスはボンドに科学者の救出を頼む際、「It’s hard to tell the good from bad, villains from heroes these days.(最近はものの良し悪しも、ヴィランかヒーローかも分かり難いから)」と口にする。『スカイフォール』において、ボンドとシルヴァを分つものは前任のMへの忠誠心というその一点のみだったが、それが頼りにならない本作では、ボンドは「公僕」としての振る舞いをより一層確かにすることで、サフィンと自分がなぜ違う人間なのかを自分で証明しなければならないのだ。
 
 
   追記:フェリックスのこの台詞は予告の時点ですでに出ていたもので、こねくり回して軸として使いました。
   この「公僕として」云々は少々複雑な話になる。もともと「終わった」後の話だろうと思っていたので、ここまで書いてきた個人と組織の間での葛藤はもはや問題にならないだろうと去年の私は予想していたらしい。
   NTTDを観ると、確かにボンドはもう「MI6の007とジェームズ・ボンドという個人どちらをとるのか」という葛藤は持たなくなっている。持たなくなっているというか、ノーミがいるから持ちようがないと言ったほうが正しいかもしれない。ノーミが後任の007という設定はかなり重要で、個人としてのボンドが(これまでの4本のように)簡単に007に戻らないよう、ストッパーの役割を果たしているように見える。ノーミがいるからボンドは個人のジェームズ・ボンドとして銃を取らざるを得なくなり、結果として「ジェームズ・ボンド個人(銃を捨てた人)」と「エージェント007(銃を持つ人)」の境界がこれ以上ないほど曖昧なものになっているのだ。
   注目したいのは、最後にノーミが「ボンドを007に戻しましょう」とMに進言してそのストッパーを外し、ボンドは結局007の称号がある状態でサフィンの島に向かうという点である。007のジェームズ・ボンドが敵の組織に乗り込む、いつもの状態で。
   特にマドレーヌと娘のマチルドを見送ってからは、今までの4本を通して繰り返し行き来してきた「「ジェームズ・ボンド個人」と「エージェント007」どっちなのか」問題を今度こそ解決する最後の作業がなされる。というのも、(私が聞き逃していなければ)ここでは誰しもがボンドのことを「ジェームズ」と名前で呼んでいるからだ。マドレーヌはもともとボンドのことを名前で呼んでいたが、ここではノーミも「ジェームズ」と、Qも「ジェームズ、早くそこから脱出して下さい」と名前で呼んでいる。特にQは、過去の2作ではいつも「007」または「ボンド」と、必ずコードネームか苗字で呼んでいた。007の称号を持つボンドを「ジェームズ」と呼ぶ、つまりは「ジェームズ・ボンド個人」と「エージェント007」は表裏一体で、どちらも捨て去らない、どちらも本当の姿と結論づけているように見えるのだ。
   こうして「ジェームズ・ボンド個人」と「エージェント007」は一つのものとなるが、梯子を登って最後に「上昇」したボンドがまさに死のうかという時、ジェームズ・ボンド=007とイコールで結ばれるものがもう一つある。ダニエル・クレイグだ。マドレーヌはボンドと交わした最後の会話で、マチルドが彼の子供であることを伝えようと「Blue eyes(青い目よ)」と言い、ボンドはそれに「I know, I know(ああ、僕の目だ)」と返す。「青い目」とは言うまでもなくダニエル・クレイグのおそらく最も有名な身体的特徴で、役に抜擢された当時は盛大なバッシングを浴びたが、今ではボンドのアイコンの一つとなった。「ボンドは青い目である」とおそらく初めて作中ではっきりと言葉にすることで、ジェームズ・ボンド=007=ダニエル・クレイグの図式を完成させ、クレイグの花道としたのだろう。
 
 
 
 『スペクター』と同じく、『NTTD』においてもボンドにとって「下降」はもはや問題ではない。この文脈において本作で問題となるのは、『スペクター』ではっきりと画として登場しなかった「上昇」の描写である。明らかに『スカイフォール』からの引用であろうボンドが氷の張った湖に落ちる場面もあるが、本作ではそれらに対する「上昇」が何度かある。最も分かりやすいのは、クライマックスでボンドとダブルオーの一人であるノーミがサフィンの組織が運営する施設に飛行機で向かう場面である。Qが修理したアストン・マーチンに乗ってロンドンを去る『スペクター』の最後の場面は象徴的な「上昇」と取ることができるが、ここでのボンドはQの作った飛行機で実際的に空を飛んでいく。『スペクター』での最後の「下降」の場面にあったQとボンドのやりとりが「上昇」によって再演されるのだ。前作ではダブルオーから一個人に戻る瞬間であったのに対し、本作ではボンドがこれまでで自分のものとした「007」の仮面を被って任務に向かう最後の瞬間であるため、Qはボンドを敬礼で見送るのである。
 
 
 
   追記:「下降」、めちゃくちゃ問題だった。冒頭のシークエンスで子供時代のマドレーヌは『スカイフォール』のボンドにのように湖の中に落ち(このショットの人影がマドレーヌだとは思わなかったな)、ボンドも水中でフェリックスを失い、クライマックスでサフィンに撃たれて毒の池に落ちる。今回、ボンドは『スペクター』のような「落ちても大丈夫な人」では全くない。
   上記の段落は、「NTTDでボンドに「上昇」の場面があったらいいな」と一番の願望を込めたところで、予告編で出ていたQがグライダーを飛ばす場面を当てはめて書いたのだった。
   いざ観てみるとどうだろう、『スペクター』で「エージェント007」ではなく、銃を捨てた「ジェームズ・ボンド個人」をなんとも言えない表情で見送ったQが、NTTDでは任務に出るボンドを敬礼で見送っている。Qは本名でスパイ活動をするボンドとは違い、(ごく初期にジェフリー・ブースロイドという名前はあるものの)作中で本名が明かされていないキャラクターでもある。クレイグのボンドが「個人か007か」という問題で揺れ動くキャラクターである限り、Qという名前しか持たないベン・ウィショーのQとの間にはある種の緊張関係が生まれる。007の称号を取り戻したボンドを敬礼で見送り、それが今生の別れになったボンドとQの関係の終着点は、ここでは贔屓目をたっぷり入れて、コードネームだけのキャラクターであるベン・ウィショーのQへ敬意を払ったものとして捉えておきたい。
   そして、キャリー・ジョージ・フクナガは、「下降」は過去作からの引用として使っていたかもしれないが、少なくとも「上昇」させることには自覚的だったのではないかと思う。クライマックスで毒の池に落ちたボンドは、自分の力で梯子を登って「上昇」してゆく。『スペクター』の猛スピードでロンドンを飛び去るDB5のように、消して派手でスタイリッシュではないけど、死の象徴である水の浮力を使わずに自分の力で上に昇ってゆく。
   「下降と上昇」で過去の作品を読んでいた自分はこの描写で胸がいっぱいになってしまった。ボンドは梯子を登って確かに死に向かって行くが、この文脈で言うとそれは生そのものを指している。ちょうどMが読んだ「存在するだけでなく生きなければならない」という詩のように、鮮やかな「上昇」を完成させた。
   
 
 
 『NTTD』は、アニバーサリー作品であることも相まってこれまで以上に自己言及的で、さらにクレイグのボンドがシリーズの「過渡期」であることに対して自覚的だ。シリーズのプロデューサーがバーバラ・ブロッコリに交代したことで、ブロスナン版から始まったボンド映画の様々な面での「解体作業」が『NTTD』で一旦終わりを迎えていると私は考える。監督がサム・メンデスからキャリー・ジョージ・フクナガに交代し、本作はロジャー・ムーアのボンド映画のような、70~80年代のハリウッド大作的な煩雑さ(エジプト系アメリカ人のラミ・マレックに羽織りを着せるような、おそらく意図された煩雑さであろう)が再び見えるようになった。冒頭でも述べたように、『カジノ・ロワイヤル』から始まったクレイグのシリーズは至極真面目なボンド映画であった。『NTTD』は、「変化の始まり」であるクレイグのボンドの「終わり」の作品として、前世紀のボンド映画を新しい感覚で回顧していると捉えられる。後ろを向きながら前進していく奇妙なシリーズであるボンド映画の姿勢に自覚的になることで、ダニエル・クレイグジェームズ・ボンドを華々しく祝福しているのである。
 
   追記:まとめの段落というのは大概私はふわっと書いてしまうもので、ここはあまり直す箇所がない。キャリー・ジョージ・フクナガは確かにロジャー・ムーアの時代のボンド映画を2021年により「正しい」状態で蘇らせようとしていると思うし、それはある程度成功していると思う。未だに悪役に顔の傷があったり、枯山水や能面がアクセサリー的に使われていたりする部分が過去のボンド映画からただスライドされている状態なのは無視すべきではないと思うけれど。少なくともマドレーヌは前作よりも血肉ある人間になっていて、ノーミとパロマを登場させたのも大成功だった。
   元々は60年代という時代を背負ったことでヒットしたボンド映画が「古い」「時代遅れ」と呼ばれたのは、今に始まったことではない。ジェームズ・チャップマンによれば、ジョージ・レーゼンビーの『女王陛下の007』(1969、ハント)あたり、つまり60年代が終わる頃にはすでに「過去の遺物」と言われていた*1。ボンド映画はそのほとんどがどこかしらで過去を回顧していると考えると、本数が増えるにつれてその傾向はどんどん強くなっているということは簡単に想像できる。NTTDは、そのレールを残したまま今25本目を作るとどうなるのか、という結果がよくわかるとても面白い映画だった。上記で去年の私はボンド映画のことを「後ろを向きながら前進していく奇妙なシリーズ」と表現したけれど、実際に観てもやっぱり「後ろを向いたまま全力疾走してるな〜」と思った。まさか過渡期の終わらせ方が「主人公を爆発させる」だとは思っていなかったけど、それくらい「一旦終わり」の気持ちが製作側に強いのだろうなとも思った。
   過去の作品を観ると、ボンドは結婚と家庭にトラウマのある男として描写されていたことがわかる。『女王陛下の007』以降ロジャー・ムーアのボンド映画数本でなんとなくこの設定は続き、ティモシー・ダルトンの『消されたライセンス』ではそれが久しぶりに浮き彫りになっていたと記憶している。「ボンドと結婚、家庭」という文脈でシリーズを観た時、NTTDはかなり重要な一本になると思う。
   そういった過去のシリーズから引き継いできた文脈があるから、あんなにはっきりボンドが「死ぬ」という結末が効いてくる。とにかく一旦これで今までのボンドは(ある程度)「終わり」ということなのだ、たぶん。でもJameds Bond Will Returnなので、26本目ではあの爆発跡からジェームズ・ボンドの何がしかが拾われて、また後ろを向きながら前方に進んでいくんじゃないだろうか。
 
 
 以上、ここまで(果たしてここまで読んでくれる人はいるのでしょうか)読んでくださってありがとうございます。2年間溜め込んだ青い眼のボンドさんへのラブレターでした。
 
 
 

*1:ジェームズ・チャップマン『ジェームズ・ボンドへの招待』、戸根由紀恵訳、徳間書店、175-176頁