お足元が悪い中

ひとり映画感想文集

Anyone can wear the mask:『スパイダーバース』から始まる誰もがマスクを被れる世界について

 

はじめに

 「ヒーローがいっぱい増えて楽しい」という話をしようと思う。増えたというか、元々たくさんいたヒーローが映像化によって広く知られるようになったと言った方がいいかもしれない。もっと色々材料が出揃ってから書くつもりだったのだが、『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』(2023)が公開される今がいいタイミングに思える。というか、これ以上待ってもヒーローは増えるばかりで減ることはないと気づいた(当たり前では?)ので、今のうちにメモがわりにでも書いておこうと思う。
 
※注意事項
 この記事は以下の作品をゴリゴリにネタバレしています。気をつけてね。
スパイダーマン:スパイダーバース』
スパイダーマン/ファー・フロム・ホーム』
スパイダーマン/ノー・ウェイ・ホーム』
『アメンジング・スパイダーマン2』
 あと、私がDCについて物を知らなさすぎる関係で、この世にマーベルしかないみたいな語り口になってしまいました。DC映画の話は全く出てきません。ご注意を。
 
 
目次

"Anyone can wear the mask" の時代

 Twitterで密かによく言っているのだが、今はヒーロー映画における"Anyone can wear the mask(誰にでもマスクが被れる)"の時代である。
 これは『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018)の最後に出てくる締めの台詞の一つだ。主人公のマイルズは、本意でない転校や父親との関係に悩まされる中で蜘蛛に噛まれる。彼の世界のピーター・パーカーが命を落としたことによって、マイルズは次のスパイダーマンとなる「責任」を負うことになる。ただでさえ心配事が多い生活なのに、ヒーローの責任なんて負えるわけがない。自分にマスクを被れるわけがない、被る資格なんてない……映画の軸になっているのはマイルズのこうした葛藤だ。
 ピーターの最愛の人であるメリー・ジェーン(MJ)は、スパイダーマンの追悼スピーチでこう言う。
 
 We all have powers of one kind or another.  But in our own way, we're all Spider-Man.  And we're all counting on you.
 私たちは誰もが何かしらの力を持っています。それぞれに違う在り方で、私たちは誰もがスパイダーマンなのです。そして、皆があなたのことを頼りにしているのです。
 
 この台詞は、追悼のために広場に集まった大勢のニューヨーカーたちを背景にして流れるが、マイルズを含む多くの人はスパイダーマンのマスクを被っている。紙のお面らしきものをつけた人や、しっかりした全頭マスクの人もいた。個々でそれぞれ違った姿のスパイダーマンが集合したように見えて、MJの台詞を体現したような画面になっているということだ。私たちにはそれぞれできること(大いなる力)があり、それを良いことのために使う責任があり、そう言った意味で私たちは誰もがスパイダーマンであるという、そんな場面だ。
 そうして葛藤を乗り越えて新しいスパイダーマンとなったマイルズは、最後に"Anyone can wear the mask. You could wear the mask(誰にでもマスクが被れる。君にだって被れる)"と私たち観客に向かって言うのである。
 
 私はこの「誰にでもマスクが被れる」という概念をかなり気に入っている。マルチバースでは本当に自分がマスクを被ったヒーローかもしれないという示唆性、「誰にでも」という多様性と、「マスク」というコスチューム(見た目)の重要性、この三点だ。そして、『スパイダーバース』の影響なのか、MCUが本格的にマルチバースを展開させたからなのか、ここ数年で"Anyone can wear the mask"を感じさせるような作品が増えたように思う。以下はその話と、あとそれに付随するような四方山話を書いていく。
 この話題はマルチバースと同じく拡大し続けるものだと思うので、ひょっとしたらあまりまとまらないかもしれない、というか、『アクロス・ザ・スパイダーバース』を観ていない状態で書いているので、来週ぐらいにはこの辺の考えが大変革を遂げているかもしれないのだが、まあそれはそれで。
 

『スパイダーバース』以前(ざっくり)、または示唆性

 私が『スパイダーバース』を観た時に抱いたのは、「(ヒーロー映画における)ヒーローの唯一性はここ十年ほどですっかり失われたのだ」という、感慨のような畏怖のような、ちょっとした郷愁のような、そういう漠然とした感覚だった。
 MCUのフェーズ1(『アイアンマン3』まで)なんかは、まさにこの「唯一性の崩壊」の面白さが牽引力になっているのではと思う。それぞれの映画のポストクレジットに、「他にもヒーローがいる」という示唆しかされていないのに、それだけで最初の『アベンジャーズ』(2012)までかなり引っ張って行けている。
 もちろん、MCUという計画自体が初めは探り探りだったので、あまり大きく出られないということはあったかもしれない。ただ、『アベンジャーズ』の公開を待っていた頃私は高校生だったが、このポストクレジットや『アイアンマン2』にニック・フューリーが出てくるのにものすごく興奮していた記憶がある。コールソンがハンマー見つけるやつとか、めっちゃ良かったよね……。
 これを5〜6年積み重ねた後でトム・ホランドスパイダーマンが登場したというのは、(実際には多分権利関係の問題が一番にあったんだろうが)すごく象徴的だ。今までスパイダーマンは唯一無二の孤高のヒーローだったのだから。
 逆に言えば、トム・ホランドスパイダーマンは最終的に『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)で「孤高のヒーロー」に戻って行き、MCU全体の流れとは完全に逆行したような形で終わったのがかなり大きな特徴だと思う。
 
 ここは完全に蛇足なので興味がなければ読み飛ばして欲しいが、ジョン・ワッツが監督したトム・ホランドスパイダーマンは、時折MCUの向かう先とは真逆の方向へ全力疾走しているような奇妙さがあり、私はその辺のいわゆる「本筋」とズレているところ、妙に細かいようなところがかなり気に入っている。
 たとえば『ファー・フロム・ホーム』(2019)のヴィランであるクエンティン・ベックは、『シビル・ウォー』(2016)で登場した立体映像システム(略称は”B.A.R.F.”、つまりゲロ。トニー命名)の開発者で、トニーに邪険に扱われて会社をクビになった。ベックは自分と同じような陽の当たらない技術者を集めてきてチームを結成するが、その中に「『アイアンマン』でオバディアから怒鳴られていた研究者」が含まれている。B.A.R.F. 開発者はともかくとして、こんな重箱の隅を突くような設定はルッソ兄弟のマーベル映画では観ることはできないだろうと思ってしまう。
 ちなみに、ジョン・ワッツスパイダーマン以前の監督作に『クラウン』というホラー映画があるのだが、これは「息子の誕生会に屋根裏にあったピエロの衣装を着たらそれが呪われていて、脱げなくなってしまった父親の話」で、「スーツが肌となる」という意味では確かにかなりスパイダーマン的な物語と言える。いやわかるんだけど、これ観て「この人に次のスパイダーマン撮ってもらおうぜ」とは普通ならないのでは? わかるんだけど。
 しかし、ヒーローになることの重みや恐怖をカルトホラー的なセンスで表現するというのはサム・ライミの『スパイダーマン』(2002)でもそうだったので、案外親和性のあるものなのかもしれない。
 蛇足終わり。
 
 
 話が逸れてしまった。
 『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)までのMCUの面白さは、二十数本もの映画に一貫性のようなものを持たせて、最終的に前後編にまとめたところにあると思う。『エンドゲーム』はこういったユニバース構想、平たく言うと「いろんな人が同じ世界にいる」というアイデアの一つの集大成だ。
 
 一方『スパイダーバース』や『ノー・ウェイ・ホーム』のようなマルチバースの概念が導入された映画では、「自己という存在は単一ではない」という広がり方をする。MCUの世界は「アース199999」という番号が付いているらしいが、つまり、MCU映画を観てブログを書いているこの私が、アース199999ではひょっとしたらピーター・パーカーの同級生とかかもしれないのである。さらに別のアースでは、私がスパイダーマンをやっている可能性もなくはない、みたいなことだ。
 不思議なことに、マルチバースの概念がある方が映画と観客の距離が近いような気がする。『スパイダーバース』でマイルズが言う"Anyone can wear the mask. You could wear the mask"には、冒頭で言ったような「誰もが力を持っていて、誰もがスパイダーマンである」という意味のほかに、「君もこれからマスクを被って、君の世界のヒーローになるかもしれない」というマルチバースの可能性を示唆するような意味もあるのだ。
 『エンドゲーム』の公開日は『スパイダーバース』とわずか四ヶ月違いで、日本だとほとんど同時だった。スーパーヒーローの唯一性、単一性は気づいたらMCUの十年ですっかり崩れ去った。マスクを被る人が大勢いる映画が当たり前になったと、『スパイダーバース』を観た時に気づいたというか、思い出したというか、思い知らされたのである。
 

Anyone :『エターナルズ』の多様性ある「ふつう」

 私が"Anyone can wear the mask"というフレーズを次に思い出したのは、2021年の秋、『シャン・チー』と『エターナルズ』を観た時である。
 『シャン・チー』の方は、正直私は背景に登場する様々な神獣たちの方にすっかり目を奪われていたのだが、アジア系のヒーローというのはそれだけで私にとって"You could wear the mask"案件である。(西洋のドラゴンではなく)東洋の龍があれだけのCGで画面に大写しになるということにも、ものすごい感慨を覚えた。神獣の扱いや描写に全く言いたいことがないわけでもないのだが、あの龍を見てアジアという大きな括りの中に自分がいることをすごくいい感じに感じ取れたのは確かである。龍、すげ〜かっこよかったな………ただ降りる時に目の上踏まない方がいいとは思うんだよ……。あとお礼とか言っても良かったと思う。
 『エターナルズ』の方は、もっとなんというか、個人的な意味でも割と好きな映画の一つだ。
 『エターナルズ』には10人もヒーローが出てくるが、皆それぞれ違う属性を持っている。これだけでもかなりすごいことだと思うが、私はそれ以上に、キャラクターたちが「普通」の人として描かれているというところを気に入っている。
 彼らはおそらくほとんど不死で、宇宙エネルギーを使ってかなり普通じゃないことができるのは確かなのだが、その一方で長く生きている(そうせざるを得ない)ものすごく普通の人たちでもある。それがかなりしっかりと描かれる。この普通さの描き方がとても良いのだ。
 写真の加工にハマったり、普通にご飯を作って食べたり、映画を作って楽しんだり、本を読み耽ったりする。そしてものすごく付き合いの長い家族がいて、離れることはできても縁を切るのはなかなか難しい事情があるので、何千年ぶりかに再会したりするが、会ったら会ったで軽口を叩いて、互いのいいところや嫌なところが見えたりする。地球を救おうと頑張る以外でエターナルたちがやっているのは主にこういうことである。
 彼らは普通ではない能力を持った、でも普通の人で、この辺までは今までのヒーロー映画で多く描かれてきたものだ。超人的な能力を持った普通の高校生のスパイダーマンが魅力的なのと同じことだ。
 彼らの中には、男性同士で結婚して子供がいる人もいれば、男性と付き合っている女性もいる。男女で同じ家にただ一緒に住んでいる人たちもいれば、誰とも一緒にいない人もいる。聴覚障害を持った人もいて、みんなとは手話で話す。彼らは家族で、写真の加工にハマったり、ご飯を食べたり、本を読み耽ったりしている。
 そこに理由はない。『エターナルズ』で描かれる「普通さ」の多くは、今までのヒーロー映画がそれを表象するために切り捨ててきたものだ。それらを拾い集めて、最初からそこにあるものとして描いている。ギルガメッシュが「なぜ」韓国系アメリカ人で、マッカリが「なぜ」聴覚障害を持っているのか、それは彼らが「そう」だからで、理由や意味のようなものは特にない。でもこれはすごく意味のあることなのだ。なぜなら彼らは「そう」だから。それが普通にその辺にいるということだと思う。
 すでにMCUを十年追ってきてすごく今更感があるが、私は多分『エターナルズ』を観て初めて「ヒーロー……いっぱい出てきて良かったな……」と思ったのだった。「世の中にいるヒーローは一人ではない」という唯一性の崩壊が、すごく現実味を帯びてきたように感じたのだ。
 

『アメスパ2』:マスクを被ると強くなる

 ところで、私は『スパイダーバース』の対極にあるのは主に『アメイジングスパイダーマン2』(2014)だと思っているのだが、この映画も最後には「誰にでもマスクが被れる」的なところに帰結する。
 『アメイジングスパイダーマン2』は、ガーフィールドのピーターがスパイダーマンになった必然性を父親の遺伝子に求めるという強烈な血統の物語だ(ピーターを噛んだ蜘蛛は父リチャードが開発したもので、同じ遺伝子を持つものでなければ噛まれた人間は死んでしまう)。これが遺伝性の病気を受け継いでしまったハリーと交差するというわけだが、MCU版や『スパイダーバース』を経た今観ると、ピーターが驚くほど孤軍奮闘を強いられているようでなかなかしんどいものがある(とはいえ、その孤独さがスパイダーマンの魅力の一つなのは確かだ)。あの世界において、スパイダーマンはほかに類するもののない単一の存在なのだ。
 ただ、本作の最後の場面では、ピーターがいじめっ子から助けた小さな男の子がスーツとマスク姿でライノに立ち向かい、そこに復活したスパイダーマンが現れるという流れがある。『アメイジングスパイダーマン』二作の基本は「マスクを被ると強くなる」というコンセプトだ。前述した血統の物語によってこの辺がちょっと霞んでいる感じがなくもないのだが、後述するコスチュームの重要さというところでは、このライノの場面はけっこう大事だと思う。
 

ホークアイ』:コスチュームを着るということ

 ディズニー+で配信されていた『マーベル616』というドキュメンタリーシリーズがあった。悲しいことについこの前(2023年5月末)配信終了してしまったようで、さっき検索したら見つからなかった……そ、そんな……
 同シリーズはMCUだけではない、マーベル作品が広く与えた社会文化的影響にフォーカスしたもので、私は残念ながら全部見ていないのだが面白いシリーズだった。え〜〜〜東映スパイダーマンの回とか見たかったんだが………!?
 その中の一つに、NYコミコンに行くコスプレイヤーたちを特集した回があり、私自身もコスプレしてコミコンに行くタイプのオタクなのですごく面白く視聴した。皆仕事や生活があるがその合間を縫って衣装を作り、メイクの練習をする様子が紹介され、そのコスチュームを着ることによって自分がどう変化するか、コスプレするキャラクターと自分がどう繋がっているかをそれぞれが語る。
 私がイベントでコスプレする頻度はせいぜい年に数回だが、例えば何かのコスプレをしていて小さな子供にキャラクターの名前で呼ばれたりした時、そういう時ほど自分が着ているコスチュームに責任を感じることはない。
 
 私が『ホークアイ』を見てまず思ったのは上記したドキュメンタリーのことと、「マーベルスタジオ、私たち(コスプレするファン)のこと知ってるやんけ……」だった。このドラマは「コスチュームを着ること、コスチュームを着て強くなること」についての話だと思う。
 クリント・バートンは富豪でなければ神でもない、弓がものすごく上手い普通のおじさんだ。彼の本職は隠密活動で、仕事の成り行きでヒーロー視されるようになった人である。実際クリントのコスチュームはスーパーヒーローというより一介のエージェントで、子供は街中のコスプレイヤーの方に寄っていく。ドラマの序盤でケイトは「地味だから売り込みずらい」と指摘するが、クリントはそういうことにかなり消極的だ。
 彼が派手なスーツを着ない理由は、台詞ではっきりそうとは言われないがドラマを見進めるうちに段々わかってくる。コスチュームとヒーローという点では、自分も一歩間違ったらL.A.R.P.(甲冑や剣でコスプレしてロールプレイングで遊ぶ集会)にいる「ヒーローのコスプレをした一般人」になるからだ。もしくは、ブロードウェイで歌って踊る俳優と何ら変わらなくなるから。冒頭の『ロジャース:ザ・ミュージカル』は居心地悪く、馬鹿馬鹿しくて恥ずかしいもののように見えたが、多分クリントがそう思っているせいだ。
 ヒーローが派手なコスチュームを着ることは、ある種の責任が伴う。そもそもこのドラマ自体、クリントの過去=ローニンのスーツが負った責任についての話でもある。『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』は、この流れで行くとコスチュームを着てシンボルになることの大変さの話だった。
 前述したL.A.R.P.はメンバーのほとんどが警官や消防士で構成された集団で、クリントとケイトに協力して情報を渡したり市民を避難させたりする。見返りは二人の新しいコスチュームの素材を貰って、それを作ることだ。クライマックスでニューヨークのパーティ会場は大混乱に陥り、L.A.R.P.の仲間たちはうまく市民を誘導できない。そこで、彼らは集会で着ていた手作りのコスチュームに着替えてもう一度表に出ていくのである。
 
 『アメイジングスパイダーマン2』のようにものすごく感動的というわけではないが、でもこれも同じように、立派な「マスクを被ると強くなる」場面だ。「ヒーローのようなコスチュームを着てヒーローのように振る舞う」のは、実は舞台に立つ俳優もコスプレが趣味の一般人も、本物のヒーローも同じである。六話の最後でクリントは冗談めかしてコスプレイヤーお手製のスーツを褒めてくれるが、そこでコスチュームをめぐる文脈がうまく重なっていた。
 
 ちなみに、この文脈の結びは、ミッドクレジットにある『ロジャース〜』のSave the Cityのフルバージョンで、ここで時折挿入されるオケの指揮者が感極まった表情をしているところにある。つまり、彼らは真剣なのだ。舞台上の俳優たちも、L.A.R.P.の仲間たちも、皆真剣にコスチュームを着ているのだ。『ホークアイ』には地球の危機も宇宙人も登場しないが、ヒーローの唯一性が完全に崩壊して、マルチバースが始まる"Anyone can wear the mask"の時代を斜め下の視点から切り取ったうまい語り口だったと思う。私もあの世界線にいたら絶対ロジャミュ観て泣いてると思うんだよな……。
 

おわりに

 さて、「誰にでもマスクが被れる」という台詞を起点に8000字も書いてしまった。マーベル関係のここ数年の大量のツイートをまとめられてすごくスッキリした。
 『スパイダーバース』でその台詞が出てきたときは「マルチバースの可能性すごいな……」という感じだったのだが、表象されるものが増えるにつれてそれがどんどん自分に近づいてきているような気がして、「ヒーローがいっぱいいるっていいな……すごいな……」に変わった遠いう話である。
 『ミズ・マーベル』は、まさに前述したような「コスプレが趣味の一般人」にスーパーパワーが宿るという話で、そういう意味では『ホークアイ』とけっこう直結していると言えなくもない。アベンジャーズのファンでティーンエージャーのヒーローというだけでもそうだが、女の子が主役の『スパイダーマン』的物語のようで、これはこれでものすごい数の人への"You could wear the mask"になっていると思う。というか、私は正直カマラちゃんに『アベンジャーズ』(2012)の公開を待っていた頃の高校生の自分の影を見た。結構はっきり見た。『マーベルズ』ではついにキャロルと対面するようなので、とても楽しみである。