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ひとり映画感想文集

時間と戦う映画スター:『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』

はじめに

 映画館、マジで中年以上の世代の人ばっかりだったな……。『トップガン:マーヴェリック』よりも年齢層が高かったかもしれない。まあハリソン・フォード81歳、スピルバーグ76歳、ジョン・ウィリアムズは91歳なんだから、そうもなるだろう。観ている側も歳を重ねているということだ。私はそのうちマーベル映画でこれに似た体験をするような気がしている。
 筆者は90年代生まれで、『インディ・ジョーンズ』への親しみがディズニーシーのアトラクションと『クリスタルスカル』の薄ぼんやりした記憶ぐらいしかない。新作を観るために過去の4本を観たりしたので、以下はそれも含んだ『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』の感想である。
 
目次

『レイダース』から『最後の聖戦』まで

 大学生の頃に『レイダース/失われたアーク《聖槍》』を観たことがあったが、正直あまり面白いとは思わなかった。アトラクションだけは何回も乗っているので、「この罠……知ってる……!」みたいな発見は確かにあった。観返してもその印象は変わらなかったのだが、今回4本続けて観たら2作目から急に面白くなり出してかなりびっくりした。
 なんだろう、思い出したのは『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズとか『ミッション・インポッシブル』で、回を追うごとにやることがトンチキな感じになっていき、観ている方も「何してんの……?」みたいな感じで観てしまうみたいな……世界の神秘や秘宝を探し、だんだんとそれが失われていく様も目にするという点ではより『パイレーツ』と通づるところがある(もちろん、『インディ』が『パイレーツ』に通じているのではなく順番が逆なのだが)。
 私はあまりたくさん観たことがないのだが、バスター・キートンとかジャッキー・チェンの映画ってこういう感じなのかな。ドタバタとメチャメチャなアクションを楽しむ、スピルバーグはそういう冒険活劇ものを80年代に復活させたかったんだろうというのは想像に難くない。
 「2作目から急に面白くなった」というのは、やっぱり周りのキャラクターに「インディがやっていることはマジでクレイジーだ」とたくさん言わせたからじゃないかと思う。だって普通吊り橋の真ん中にいる人は吊り橋のロープをぶった切ったりしないじゃん……そこでヒロインに「nuts」と言われるから、大いに面白い場面として観ることができる。キー・ホイ・クァンにも「あいつは正真正銘のクレイジー」って台詞があったし。
 『最後の聖戦』も、超インドアの父親(ショーン・コネリー)がセットになっているから面白い。以前トム・クルーズについても同じようなことを思ったのだが、インディはインディ単体なのではなく、誰か一緒にいた方がいい。イーサン・ハントだって、単体ではなくベンジーが一緒にいた方がいいのと同じだ。バイクに乗りながら長物で敵を薙ぎ倒すインディを撮るなら、サイドカーでそれにドン引きしているショーン・コネリーを置いた方が絶対にいい。
 
 
 ところで、私は今回ちゃんと観て初めて「そうかこの人学者なんだった」と認識したくらいだ。いや激ヤバ学者すぎるだろ……。あんな生活しててテストとかレポートの採点とかどうしてんの? TAとかいるのかな……大変そうすぎるだろジョーンズ先生のTA、絶対やりたくない。
 

クリスタルスカルの王国』

 本当なら、これがハリソン・フォードの『トップガン:マーヴェリック』的な、「久しぶりに最後にやる一本」ということだったんだろうな、というのは結構明らかだ。壮年期のインディは三部作の頃からはちょっと違う人になっていると思うし、このまま行くと『運命のダイヤル』でうるさい隣人に木製バットを持って文句を言いに行く感じの老人になるのもよくわかる。若い頃は冒険好きなライフスタイルを職場で隠そうとしているようなそぶりがあるが、多分歳を取るにつれてめんどくさくなってきてるんだろうなというのも思った。
 若くて向こう見ずな冒険家が歳をとって「おじさん」「爺さん」と呼ばれる側になる、そういう「老い」のテーマも割とちゃんと踏襲していて、最後はマリオンと再び結ばれて、結婚生活という新しい冒険に出る……かなりしっかり「終了」している。4本目を観終わったときは「80にもなってこれ以上一体何を……?」という気持ちでいっぱいだった。
 
以下、新作のネタバレがあります。よろしくどうぞ。
 
 
 

『運命のダイヤル』:ハリソン・フォードVS時間

 こうした長く続くシリーズものや、時間を経て作られる続編は、どうしても「時間の経過」や「老い」がテーマになる。というか、そこから逃げて全く昔と同じようにやることはできない。もう昔ではないからだ。『運命のダイヤル』は、その辺りにちゃんと向き合った映画なのではないかと思う。
 なんというか、映画スターでいることとは時間との戦いなのだな……としみじみしたことを思った。私たちから見ればスクリーンにいるスターは映画さえ観れば会える、朽ちることのないものだが、それは血肉ある生身の人間によって作られたものだ。映画スターの物理的な肉体は時間に勝つことはできないが、カメラに収めさえすれば映画には残る。
 冒頭でハリソン・フォードの身体がしっかりと映されたのは、そういうことではないかと思う。
 インディは過去の時代に残りたいと言う。ここは、多分多くの人が「アルキメデスの墓に入っていたのは過去に残ったインディなのではないか」と思ったと思う。それはそれですごくロマンがあるというか、綺麗な終わり方になるような気がしないでもないが、ジェームズ・マンゴールドはそうはせずに、ヘレナ(フィービー・ウォーラー=ブリッジ)がパンチで昏倒させてインディを現代に連れ帰るという荒技をとったわけである。
 それはたぶん、映画スターが戦っている時間とは、現在の時間だからだ。昔活躍したスターは老いると「過去のものになった」とよく言われるが、人間は現在を生きている限り過去のものには「なれない」、そうなることは許されない。今現在に生きることを諦めてはいけない。ヘレナの荒技にはそういうものが込められているような気がする。
 

おわりに(追記)

 若い頃に大ヒットした映画の主演をやっていた俳優が歳をとってから「老い」をテーマにした続編を作る、というの、前世紀でもあったのかなあ。ちょっと思い当たる節がない。
 そもそも、映画で続き物をやるというのが定着したのが『スターウォーズ』以降のような気がする(それ以前は『荒野の七人』とかそうかもしれないが、今とはちょっと感覚が違うような?)から、撮影所システムが崩壊した後の「映画スター」の一種のキャリアの流れになってるのかもしれない。
 40年後ぐらいに、70代のクリス・エヴァンスがエンドゲームに出てきた年取ったスティーブ・ロジャースの映画の主演をやって、それを観にいく5〜60代の私、みたいなのが容易に想像できるんですよね、マジで。
 
 
 余談なんですが、トゥクトゥクってそんな……ああいうの(?)に耐えられる乗り物なんでしょうか……あんな直角に曲がれるんか? インディのトゥクトゥクはそうなのか……そう……