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ひとり映画感想文集

縦と横、獲得と喪失:『すばらしき世界』と『ヤクザと家族』

『すばらしき世界』2021年日本 126分
監督・脚本:西川美和
原案:佐木隆三『身分帳』
出演:役所広司/中野大賀/六角精児
 
新文芸坐の『ヤクザと家族』との二本立て。一緒に観られていい機会でした。文芸坐さんいつもありがとう。
『ヤクザと家族』については初見の時の簡単な印象を文章にしているので、そしてこの記事も『ヤクザと家族』との比較を中心に書くので、下記も読んでいただけると嬉しいです。
 
 
○娑婆の空に押し潰されて
 藤井道人『ヤクザと家族』と西川美和『すばらしき世界』。同じ時期に公開された似たテーマの映画だけど、語り口や表現の仕方ではけっこう対照的な二本ではないかと思った。二つ一気に見たので余計そう感じただけかもしれないけれど。
 『ヤクザと家族』は、ヤクザ映画というジャンルへの意識が非常に強い作品である一方で、『すばらしき世界』は全くそういう印象を受けない。ヤクザは出てくるけどヤクザ映画ではない、みたいな。
 それはもちろん、『すばらしき世界』は出所後の更生が主なストーリーであるからというのは主な理由だろう。登場するのは主人公の三上(役所広司)の昔馴染みのヤクザよりも、市役所の職員や身元引き受け人の弁護士、映像作家、スーパーの店長など、圧倒的に「娑婆」の世界に生きる人たちが多い。地元九州のヤクザたちや彼自身の母親など、三上の過去からの繋がりにある人物はみな物語からは途中で退場し、探しても見つからなかったりする。描かれるのは、出所した後の三上が得る2020年代に生きる複数の人たちとの繋がりである。
 一方『ヤクザと家族』は、主人公・賢治(綾野剛)の半生を三つの時代に分けて描く年代記の形式を取っている。19歳から39歳までの20年間の、一人の人間がヤクザになったことによる周囲への影響と変化が描かれる。登場人物も1999年から2019年までほとんど変わらず、同じ人物の20年間を描き続けているという印象が強い。『ヤクザと家族』が現代のヤクザの「縦」の物語であるなら、『すばらしき世界』は「横」の物語と考えられよう。
 これに関連するもう一つの理由は、三上が組に属していない時もあった「一匹狼」を自称していた人物だったということではないかと思う。つまり『ヤクザと家族』の賢治よりも、少年時代から組と付き合いがあった三上の方がより早くから「個」として成立しており、『すばらしき世界』とはそんな三上が娑婆の世界で「普通」の「個」として認められようとする物語なのである。そして、三上が「個」になろうとすればするほど、横に果てしなく広がる「普通」の世界が恐ろしく広いのだということが強調される。
 『すばらしき世界』は、『ヤクザと家族』よりも些か語り口のスケールが大きく、そのすばらしきスケールの大きさが三上という個人を押し潰してしまう。劇中、「広いってよ」と称される「娑婆の空」は、ラストショットではその空間の空き方がかなり空虚に恐ろしく見える。この世界への広がり方が、本作を「ヤクザ映画」から引き離している要因の一つではないかと思う。
 
○獲得と喪失
 さらに、『すばらしき世界』が基本的に何かを得ていく物語であるのに対し、『ヤクザと家族』は本質的に喪失の物語であるということも感じたので話しておきたい。
 『すばらしき世界』は、ほとんど身一つで再スタートを試みる三上が、人との繋がりのような目に見えないものや、自転車や新しい服といった実際的なモノを少しづつ手に入れてゆく。最終的に手に入れたいものは「社会的な信用」、つまり「普通」になることだ。
 介護施設で働き出して周囲とも「問題を起こさずうまく」やった帰り道に、三上は今は再婚している元妻から連絡を受ける。「社会的な信用」を得た先にある、三上が最も手に入れたい幸せの象徴のような存在である。しかし、その幸せに向かって「順調にやってるよ」という旨を笑って話すそばから土砂降りの雨が降り出すのだ。物語に登場する天気とは、映画や小説では主人公の心情や物語の緩急に合わせて変化するツールであり一つの指標である。この場合は、間違いなく「娑婆」とは土砂降りであり、その最悪な天気を「順調」と呼ぶことなのだと読むことができる(そういえば、馴染みの九州の組のもとに警察がやってきた時も台風のような天気だった)。
 一方『ヤクザと家族』は、賢治が「ヤクザ」であることと一緒に得た「家族」というただ一つの概念がひたすらに失われていく喪失の物語だ。上に貼った記事でも触れたことだが、私は同作を「ヤクザ」という言葉から「家族」という意味が乖離し分断されていく物語と読んだ。「家族」を概念的(=柴咲組)にも実際的(=由香と彩)にも失ってしまった賢治は、生きているうちに最後まで何かを得るということがない。確かに賢治は翼の代わりに罪を重ねることで、翼を「家族」(=愛子)の方へ押し戻したが、「新しいもの」が芽生えるのはあくまでラストシーンで翼と彩が出会う場面だ。さらに言えば、そこで芽生えるものも「ヤクザ」ではなく(「あんたヤクザ?」「ヤクザなんて食えねえだろ」)「家族」(「お父さんてどんな人だったの」「ちょっと話そうか」)なのである。
 
 
 こうして比べてみると、『ヤクザと家族』は、『すばらしき世界』に比べるとより視点がミニマムでドラマチックな映画と言える。賢治の死はある種のカタルシスを持って、その後のエンドロールまで情感たっぷりに描かれるが、三上のそれは全くそうではない。『すばらしき世界』のドラマを放棄したようなエンディングの演出は、上記したようなスケールの大きさに依るところが大きいと言えるかもしれない。