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ひとり映画感想文集

膝で割ったスイカとべとべとのハンバーガー:『横道世之介』と『南極料理人』

横道世之介』A Story of Yokosuke 2012年日本 160分
監督:沖田修一
脚本:沖田修一/前田司郎
 
今月初めぐらいから続いている綾野剛ウォッチングの一環です。
沖田修一の映画はなんと言っても『南極料理人』があまりにも好きで、それ以外の監督作を観る気になれず長い間放っておいていたのですが、何年か越しにやっと鑑賞しました。『南極料理人』との共通点も交えて書いていきます。
 
あらすじと前置き
 上に書いたような事情があるのでどうしてもバイアスのある見方をしてしまったと思うのだけど、でもやっぱり食べ物の描写は本当に素晴らしかったな〜としみじみ思う。個人的な話だが物語における食事の描写が大好きで、特に映画の中で食事の場面が出てくると「誰が誰と一緒に何をどんな風に食べているのか」、「その食事の前後で物語はどう変わったのか」つぶさに観察してしまう。映画を観るにはかなり重要な指標の一つだと思っている。
 『横道世之介』は、タイトルと同じ名前の主人公(高良健吾)が地元の長崎から大学進学のために上京し、様々な人と出会い関わっていく様子を映した映画である。どんな人にも飾らずに誠実に接する世之介のことを、大学時代の友人たちが10年以上経ってからふと思い出して話題にする場面が挿入され、俳優たちは10代と40代近くになった同一人物を同時に演じている。『南極料理人』もそうだが、概要が3行で終わるような話を懇切丁寧に描いている、一見何も起こっていないように見えても実はしっかり段階を踏んでドラマが進んでいく面白い作品だった。
 
膝で割ったスイカを一緒に食べよう
 『南極料理人』ほどではないが、『横道世之介』にも沢山の食事の場面が登場する。長崎の実家で出た御馳走、ところてん、おばあちゃんの葬式の後のバームクーヘン、などなど。特に世之介の恋人であった祥子(吉高由里子)と初対面で食べた巨大なハンバーガーは、16年後のパートでその食べ方がもう一度登場し、二者の繋がりが表現される。これ以外にも世之介は初対面の人間と食事をする場面があり、彼がおおらかでオープンな人であることがよくわかる。食事がこうした語り口のツールとして機能している様を観るのは面白い。
 しかし、なんといっても素晴らしかったのは、世之介が人違いをしたことがきっかけで知り合った加藤(綾野剛)のパートである。いつもウォークマンから伸びるイヤホンをかけた加藤は、世之介のことも最初は鬱陶しがっていたが、徐々に打ち解けていく。赤や青、黄色といった原色の服を着ている世之介に対して、加藤は教室の机と同化しそうな茶色っぽい上下の地味な生徒だ。初対面の二人が食堂で昼食をとる場面では、揚げ物の弁当と焼きそばを交互に食べ、側に炭酸ジュースがある世之介に対して、加藤は向かい側でカロリーメイトを齧り、側に紙コップに入った水がある。あまりにも噛み合わない、キャラクターをよく表したメニューだ。大丈夫なんだろうか。
 面白いのはこの先で、加藤が夏休みに自分のアパートに入り浸っている世之介にスイカを切ってあげるという場面がある。それだけでも随分好意的に接するようになったことがわかるが、この後夜の公園で彼は世之介に自分が同性愛者であることを打ち明ける。加藤の家からスイカを食べ食べ付いてきた世之介はそれを聞いて驚くが、持っていたスイカを押しつぶすように膝で二つに割ると、べとべとになった手で片方を加藤に渡すのである。
 この「膝でスイカを割る」という行為が、この一連のパートにおける見事なカタルシス、浄化になっているように見えたのだ。初対面では全く汁気のないパサついたものを齧っていた加藤が、汁でべとべとになったスイカを笑いながら受け取る、食べ物によって対比され展開されるドラマである。個人的なことを打ち明けた加藤はしばらく気まずそうな顔をしているが、世之介にスイカを渡されて笑顔になり、さらにそれを半分に割って彼に返そうとする。スイカが割れる「ぱきん」という音が気持ちいい。
 
「うまっ!」
 『南極料理人』は、上記したような食べ物による気持ちの良い描写の連続だ。寒い外で散々我慢して仕事した後に食べるおにぎりと豚汁という描写だけですごい開放感、快感を描いていると思うし、そんな場面が手を変え品を変え繰り返される。『南極料理人』の面白いところは、あれだけ「美味しい」場面が続くというのに、最後の最後までまるで我慢しているかのように「うまい」という台詞が出てこないところだ。出てくるのは西村(堺雅人)が帰国して家族と動物園に行った時、お昼にテリヤキバーガーを食べる場面である。「べとべとしてるよ」と妻に言われたそれを西村は一口食べて、「うまっ!」と呟く。で、エンドロール。どうだろう、物凄い開放感を感じないだろうか。
 本来なら、こういった開放感は帰国して家族と再会する場面でピークに達するものではないかと思う。しかし、『南極料理人』ではそういった類のカタルシスの芽をかなり早い段階から摘んでおり、ある種打ち消しているような印象を受けるのだ。西村は南極に行きたかったわけでもなんでもないが、先輩調理師の怪我で観測隊に欠員が出たところを上司に言われて埋めることになる。「家族と相談させてください」と抵抗するも、妻と小学生の娘は「別にいんじゃない?」とあまり関心はなく、西村はあっさりと南極に送り出されてしまう。家から送られてくるFAXにも、「お父さんがいなくても全然寂しくありません」と書かれている。終いには、西村自身も帰国した後に「僕は本当に南極になんて行ってきたのだろうか」と考えたりするのである。
 その代わり、テリヤキバーガーの「うまっ!」がある。『南極料理人』のカタルシスは、その位置と比重を全て食べ物と食事に置かれているのだ。
 
開放の位置
 『横道世之介』でも、ドラマのカタルシスの位置はちょっとずらされている。本作は、大学時代に世之介が出会った人のエピソードの後に、その友人の16年後の生活の場面が挿入されるという順番が繰り返される。が、中盤から登場し続ける恋人の祥子に関してだけは語りの順番が違っているのだ。社会人になった祥子は世之介が事故で亡くなったことを知り、長崎の世之介の実家に連絡を取る。世之介の撮った写真を郵便で受け取り中身を見る場面があった後の場面で、16年前の世之介がその写真を撮った経緯がロングカットで映される。
 このロングカットが、本作のカタルシスに当たると思うのだ。祥子が見た写真は、カメラの設定を間違えていたりピントが合っていなかったりして何が写っているのかわからないものもあるが、観客は最後のロングカットで世之介が何を撮ろうとしたのかが分かる。これも見ていて気持ちいい、開放感のある場面だ。『南極料理人』のハンバーガーよりもっと複雑でささやかかもしれないが、十分2作の共通点として挙げられる要素ではないかと思う。