お足元が悪い中

ひとり映画感想文集

ランバラルの友達ですから:『リップヴァンウィンクルの花嫁』

リップヴァンウィンクルの花嫁』 2016年日本 180分
脚本/監督/編集:岩井俊二
 

はじめに

 「血に塗れない綾野剛ってどこで観れるの?」と探していたらTwitterのフォロワーさんが紹介してくださった一本です。その節はありがとうございます!
 岩井俊二の監督作を実は観たことがありませんでした。『スワロウテイル』をほんの一瞬見たことがあるぐらいかな。周りには好きという友達が結構いて、よく話を聞いたりはしていたのですが。個人的な好みではなかったけど、考えがいのある作品なんだなというのはすごく観てて思いました。あと、岩井俊二の監督作もひと続きに観たらもっと面白いんだろうな、とも。
 
目次

あらすじ

 金銭をやりとりする場面がとても多いな、と思った。タイトルもそうだが、本作は観ているとそこはかとなくお伽話が下敷きにされていることがわかる。非正規で教師として働いている主人公の七海(黒木華)は、SNSで出会った彼氏と結婚することになる。七海は、彼氏に比べて自分は式に呼ぶ招待客がほとんどいないことを気にして、「なんでも屋」の安室(綾野剛)に出席代行を頼むことにするが、それがきっかけでそれまでとは全く違った日々を送ることになる。これが本作のあらすじだ。
 「全く違った日々」とは、ほんの一瞬しか続かなかった結婚生活ののちに七海が経験する奇妙なアルバイトのことで、これを斡旋するのが最初は七海がクライアントとして出会った安室である。自分もそのサービスを受けた出席代行や主人が不在の巨大な別荘の維持など、七海はやや非現実的な世界へと足を踏み入れる。これだけでもなんとなく『不思議の国のアリス』っぽいなという印象を受ける(ちなみにワシントン・アーヴィングの短編『リップ・ヴァン・ウィンクル』(1819)は、西洋版浦島太郎とも呼ばれる最初期のアメリカの小説である)。
 後半で出てくる屋敷の外観や内装、2着のウェディングドレスなど、本作は物語が進むに従って画面がだんだんと華やかなお伽話の一場面のようになっていくし、作品全体の柔らかい雰囲気も相まって白昼夢を観ているような気持ちになってくる。
 

金勘定のあるお伽話

 しかし、話は戻るが、「金銭と引き換えに何かを得る」という描写は途切れることがない。冒頭で七海は自分の彼氏のことをネットショッピングに例え、のちにそれは結納という形で金銭のやり取りが交わされて限りなく「買い物」に近い状態となる。また、住み込みで働いているホテルから七海を連れ出すために、安室が喧嘩別れした夫のふりをして従業員に金を握らせるという場面があるが、その後に別荘を維持する仕事を与えられる展開があることを考えると、あそこは実質的には七海は働き手として安室に「買い戻されている」ということになる。さらに終盤では、七海は安室だけではなく恋人のような存在になっていた真白(Cocco)からも「買われて」いたことがわかる。七海は誰かに「買われる」ことを作中で何回も繰り返しているのだ。
 また、七海の周囲に現れる人たちはキャバ嬢やAV女優など、(どんな仕事でもそうだが、特に)自分の体や見た目を金銭と引き換えにダイレクトに商品とする人物が多い。「なんでも屋」の安室も、七海と予め取り付けた約束のとき以外はツナギを着ているところを見ると、業務内容は肉体労働が多いようだ。これもその文脈の一部ではないかと思う。
 

ランバラルの友達ですから、安くしますよ

 「なんでも屋」の安室は、その言動が隅から隅まで全く信用できない男だ。信用できなさそうな役の綾野剛は何度か観たけど、今のところこの安室がダントツで信用できない。「100万円ほしくないんですか?」の畳み掛けが怖かった……。もし現実で出会ったら絶対に近づいてはいけない感じの人だ。お前じゃん、ランバラル。
 上記したような金勘定の文脈に当てはめると、安室は金と引き換えに人をモノ扱いするプロのような存在と言える。ホテルから七海を鮮やかに「買い戻」し、七海を駒として使って真白の「一緒に死ぬ人が欲しい」という依頼を遂行した。子供を公園に連れて行って面倒を見たり、自分の体を使った仕事もしているところを見ると、売るものの範疇の中に自分自身も入っているのだろう。
 終盤、七海と安室が真白の遺骨を川崎の実家に持っていく場面で、真白の母が(自分の娘が仕事でやっていたように)裸になって遺骨の前で泣くという場面がある(ここでの安室の真白の遺骨を扱うときの淡白さはすごい(「娘さんどこ置きましょーか?」)。金銭の授受もしっかりある)。ここでなぜか安室も一緒になって服を脱ぎ、七海はなんとか免れて、3人で焼酎を飲みながら声を上げて泣くのだ。
 安室が「共感」というポーズを取る場面はここの前にもあり、七海から受けた浮気調査の依頼の報告する場面がそれにあたる。義母が雇った別れさせ屋の仕業である(真偽は定かではない)ことを知って「くそー」と泣く七海の横で、安室はお茶を飲みながら「くそー」「ちくしょー」と棒読みで合いの手を入れる。まるで感情が篭っていないポーズだけの共感だ。
 真白の母親と一緒になって泣いたときの安室の「共感」が、ポーズなのか本当のものなのかはちょっと判断しにくい。個人的にはいきなりわっと声をあげるところがホテルの場面のひと芝居と似ていて、怪しいな〜と思ってしまった。しかし、この映画はお金で人の気持ちを買うことや嘘をつき続けることをお伽話のように美しく、そこら中にあるものとして描いたものだ。その積み重ねが三時間近く繰り返された後だと、この終盤の「共感」は同じ芝居でも多少こちらからの見え方が変わってくるのではないかと思う。たぶんそれが「判断しにくい」と思った理由だ。
 
 面白いことに、一番最後の場面で安室が七海の新居に運んでくる家具は全て粗大ゴミに出されていたものだ。つまり、あれだけ金銭を介して登場していた安室が、それを必要としないものを持ってくるのである。「ランバラルの友達だから、安くしといた」やつではなくて(ちなみに、今までその描写が無かった給料の支払いもここで出てくる。七海がお金を受け取っている描写があるのはここだけではないかと思う)。この最後の描写だけでも、安室が怪しくて悪そうな人のまま微妙に何かが変わっているらしいことがわかるのだ。
 
 
 
 
 

膝で割ったスイカとべとべとのハンバーガー:『横道世之介』と『南極料理人』

横道世之介』A Story of Yokosuke 2012年日本 160分
監督:沖田修一
脚本:沖田修一/前田司郎
 
今月初めぐらいから続いている綾野剛ウォッチングの一環です。
沖田修一の映画はなんと言っても『南極料理人』があまりにも好きで、それ以外の監督作を観る気になれず長い間放っておいていたのですが、何年か越しにやっと鑑賞しました。『南極料理人』との共通点も交えて書いていきます。
 
あらすじと前置き
 上に書いたような事情があるのでどうしてもバイアスのある見方をしてしまったと思うのだけど、でもやっぱり食べ物の描写は本当に素晴らしかったな〜としみじみ思う。個人的な話だが物語における食事の描写が大好きで、特に映画の中で食事の場面が出てくると「誰が誰と一緒に何をどんな風に食べているのか」、「その食事の前後で物語はどう変わったのか」つぶさに観察してしまう。映画を観るにはかなり重要な指標の一つだと思っている。
 『横道世之介』は、タイトルと同じ名前の主人公(高良健吾)が地元の長崎から大学進学のために上京し、様々な人と出会い関わっていく様子を映した映画である。どんな人にも飾らずに誠実に接する世之介のことを、大学時代の友人たちが10年以上経ってからふと思い出して話題にする場面が挿入され、俳優たちは10代と40代近くになった同一人物を同時に演じている。『南極料理人』もそうだが、概要が3行で終わるような話を懇切丁寧に描いている、一見何も起こっていないように見えても実はしっかり段階を踏んでドラマが進んでいく面白い作品だった。
 
膝で割ったスイカを一緒に食べよう
 『南極料理人』ほどではないが、『横道世之介』にも沢山の食事の場面が登場する。長崎の実家で出た御馳走、ところてん、おばあちゃんの葬式の後のバームクーヘン、などなど。特に世之介の恋人であった祥子(吉高由里子)と初対面で食べた巨大なハンバーガーは、16年後のパートでその食べ方がもう一度登場し、二者の繋がりが表現される。これ以外にも世之介は初対面の人間と食事をする場面があり、彼がおおらかでオープンな人であることがよくわかる。食事がこうした語り口のツールとして機能している様を観るのは面白い。
 しかし、なんといっても素晴らしかったのは、世之介が人違いをしたことがきっかけで知り合った加藤(綾野剛)のパートである。いつもウォークマンから伸びるイヤホンをかけた加藤は、世之介のことも最初は鬱陶しがっていたが、徐々に打ち解けていく。赤や青、黄色といった原色の服を着ている世之介に対して、加藤は教室の机と同化しそうな茶色っぽい上下の地味な生徒だ。初対面の二人が食堂で昼食をとる場面では、揚げ物の弁当と焼きそばを交互に食べ、側に炭酸ジュースがある世之介に対して、加藤は向かい側でカロリーメイトを齧り、側に紙コップに入った水がある。あまりにも噛み合わない、キャラクターをよく表したメニューだ。大丈夫なんだろうか。
 面白いのはこの先で、加藤が夏休みに自分のアパートに入り浸っている世之介にスイカを切ってあげるという場面がある。それだけでも随分好意的に接するようになったことがわかるが、この後夜の公園で彼は世之介に自分が同性愛者であることを打ち明ける。加藤の家からスイカを食べ食べ付いてきた世之介はそれを聞いて驚くが、持っていたスイカを押しつぶすように膝で二つに割ると、べとべとになった手で片方を加藤に渡すのである。
 この「膝でスイカを割る」という行為が、この一連のパートにおける見事なカタルシス、浄化になっているように見えたのだ。初対面では全く汁気のないパサついたものを齧っていた加藤が、汁でべとべとになったスイカを笑いながら受け取る、食べ物によって対比され展開されるドラマである。個人的なことを打ち明けた加藤はしばらく気まずそうな顔をしているが、世之介にスイカを渡されて笑顔になり、さらにそれを半分に割って彼に返そうとする。スイカが割れる「ぱきん」という音が気持ちいい。
 
「うまっ!」
 『南極料理人』は、上記したような食べ物による気持ちの良い描写の連続だ。寒い外で散々我慢して仕事した後に食べるおにぎりと豚汁という描写だけですごい開放感、快感を描いていると思うし、そんな場面が手を変え品を変え繰り返される。『南極料理人』の面白いところは、あれだけ「美味しい」場面が続くというのに、最後の最後までまるで我慢しているかのように「うまい」という台詞が出てこないところだ。出てくるのは西村(堺雅人)が帰国して家族と動物園に行った時、お昼にテリヤキバーガーを食べる場面である。「べとべとしてるよ」と妻に言われたそれを西村は一口食べて、「うまっ!」と呟く。で、エンドロール。どうだろう、物凄い開放感を感じないだろうか。
 本来なら、こういった開放感は帰国して家族と再会する場面でピークに達するものではないかと思う。しかし、『南極料理人』ではそういった類のカタルシスの芽をかなり早い段階から摘んでおり、ある種打ち消しているような印象を受けるのだ。西村は南極に行きたかったわけでもなんでもないが、先輩調理師の怪我で観測隊に欠員が出たところを上司に言われて埋めることになる。「家族と相談させてください」と抵抗するも、妻と小学生の娘は「別にいんじゃない?」とあまり関心はなく、西村はあっさりと南極に送り出されてしまう。家から送られてくるFAXにも、「うちは平和そのものです。お父さんがいなくなってからというもの、楽しくて仕方ありません」と書かれている。終いには、西村自身も帰国した後に「僕は本当に南極になんて行ってきたのだろうか」と考えたりするのである。
 その代わり、テリヤキバーガーの「うまっ!」がある。『南極料理人』のカタルシスは、その位置と比重を全て食べ物と食事に置かれているのだ。
 
開放の位置
 『横道世之介』でも、ドラマのカタルシスの位置はちょっとずらされている。本作は、大学時代に世之介が出会った人のエピソードの後に、その友人の16年後の生活の場面が挿入されるという順番が繰り返される。が、中盤から登場し続ける恋人の祥子に関してだけは語りの順番が違っているのだ。社会人になった祥子は世之介が事故で亡くなったことを知り、長崎の世之介の実家に連絡を取る。世之介の撮った写真を郵便で受け取り中身を見る場面があった後の場面で、16年前の世之介がその写真を撮った経緯がロングカットで映される。
 このロングカットが、本作のカタルシスに当たると思うのだ。祥子が見た写真は、カメラの設定を間違えていたりピントが合っていなかったりして何が写っているのかわからないものもあるが、観客は最後のロングカットで世之介が何を撮ろうとしたのかが分かる。これも見ていて気持ちいい、開放感のある場面だ。『南極料理人』のハンバーガーよりもっと複雑でささやかかもしれないが、十分2作の共通点として挙げられる要素ではないかと思う。
 
 
 
 

縦と横、獲得と喪失:『すばらしき世界』と『ヤクザと家族』

『すばらしき世界』2021年日本 126分
監督・脚本:西川美和
原案:佐木隆三『身分帳』
出演:役所広司/中野大賀/六角精児
 
新文芸坐の『ヤクザと家族』との二本立て。一緒に観られていい機会でした。文芸坐さんいつもありがとう。
『ヤクザと家族』については初見の時の簡単な印象を文章にしているので、そしてこの記事も『ヤクザと家族』との比較を中心に書くので、下記も読んでいただけると嬉しいです。
 
 
○娑婆の空に押し潰されて
 藤井道人『ヤクザと家族』と西川美和『すばらしき世界』。同じ時期に公開された似たテーマの映画だけど、語り口や表現の仕方ではけっこう対照的な二本ではないかと思った。二つ一気に見たので余計そう感じただけかもしれないけれど。
 『ヤクザと家族』は、ヤクザ映画というジャンルへの意識が非常に強い作品である一方で、『すばらしき世界』は全くそういう印象を受けない。ヤクザは出てくるけどヤクザ映画ではない、みたいな。
 それはもちろん、『すばらしき世界』は出所後の更生が主なストーリーであるからというのは主な理由だろう。登場するのは主人公の三上(役所広司)の昔馴染みのヤクザよりも、市役所の職員や身元引き受け人の弁護士、映像作家、スーパーの店長など、圧倒的に「娑婆」の世界に生きる人たちが多い。地元九州のヤクザたちや彼自身の母親など、三上の過去からの繋がりにある人物はみな物語からは途中で退場し、探しても見つからなかったりする。描かれるのは、出所した後の三上が得る2020年代に生きる複数の人たちとの繋がりである。
 一方『ヤクザと家族』は、主人公・賢治(綾野剛)の半生を三つの時代に分けて描く年代記の形式を取っている。19歳から39歳までの20年間の、一人の人間がヤクザになったことによる周囲への影響と変化が描かれる。登場人物も1999年から2019年までほとんど変わらず、同じ人物の20年間を描き続けているという印象が強い。『ヤクザと家族』が現代のヤクザの「縦」の物語であるなら、『すばらしき世界』は「横」の物語と考えられよう。
 これに関連するもう一つの理由は、三上が組に属していない時もあった「一匹狼」を自称していた人物だったということではないかと思う。つまり『ヤクザと家族』の賢治よりも、少年時代から組と付き合いがあった三上の方がより早くから「個」として成立しており、『すばらしき世界』とはそんな三上が娑婆の世界で「普通」の「個」として認められようとする物語なのである。そして、三上が「個」になろうとすればするほど、横に果てしなく広がる「普通」の世界が恐ろしく広いのだということが強調される。
 『すばらしき世界』は、『ヤクザと家族』よりも些か語り口のスケールが大きく、そのすばらしきスケールの大きさが三上という個人を押し潰してしまう。劇中、「広いってよ」と称される「娑婆の空」は、ラストショットではその空間の空き方がかなり空虚に恐ろしく見える。この世界への広がり方が、本作を「ヤクザ映画」から引き離している要因の一つではないかと思う。
 
○獲得と喪失
 さらに、『すばらしき世界』が基本的に何かを得ていく物語であるのに対し、『ヤクザと家族』は本質的に喪失の物語であるということも感じたので話しておきたい。
 『すばらしき世界』は、ほとんど身一つで再スタートを試みる三上が、人との繋がりのような目に見えないものや、自転車や新しい服といった実際的なモノを少しづつ手に入れてゆく。最終的に手に入れたいものは「社会的な信用」、つまり「普通」になることだ。
 介護施設で働き出して周囲とも「問題を起こさずうまく」やった帰り道に、三上は今は再婚している元妻から連絡を受ける。「社会的な信用」を得た先にある、三上が最も手に入れたい幸せの象徴のような存在である。しかし、その幸せに向かって「順調にやってるよ」という旨を笑って話すそばから土砂降りの雨が降り出すのだ。物語に登場する天気とは、映画や小説では主人公の心情や物語の緩急に合わせて変化するツールであり一つの指標である。この場合は、間違いなく「娑婆」とは土砂降りであり、その最悪な天気を「順調」と呼ぶことなのだと読むことができる(そういえば、馴染みの九州の組のもとに警察がやってきた時も台風のような天気だった)。
 一方『ヤクザと家族』は、賢治が「ヤクザ」であることと一緒に得た「家族」というただ一つの概念がひたすらに失われていく喪失の物語だ。上に貼った記事でも触れたことだが、私は同作を「ヤクザ」という言葉から「家族」という意味が乖離し分断されていく物語と読んだ。「家族」を概念的(=柴咲組)にも実際的(=由香と彩)にも失ってしまった賢治は、生きているうちに最後まで何かを得るということがない。確かに賢治は翼の代わりに罪を重ねることで、翼を「家族」(=愛子)の方へ押し戻したが、「新しいもの」が芽生えるのはあくまでラストシーンで翼と彩が出会う場面だ。さらに言えば、そこで芽生えるものも「ヤクザ」ではなく(「あんたヤクザ?」「ヤクザなんて食えねえだろ」)「家族」(「お父さんてどんな人だったの」「ちょっと話そうか」)なのである。
 
 
 こうして比べてみると、『ヤクザと家族』は、『すばらしき世界』に比べるとより視点がミニマムでドラマチックな映画と言える。賢治の死はある種のカタルシスを持って、その後のエンドロールまで情感たっぷりに描かれるが、三上のそれは全くそうではない。『すばらしき世界』のドラマを放棄したようなエンディングの演出は、上記したようなスケールの大きさに依るところが大きいと言えるかもしれない。
 
 

窓を見る:『影裏』

『影裏』 2020年 日本 134分
監督:大友啓史
脚本:澤井香織
原作:沼田真佑『影裏』
 
粛々と綾野剛ウォッチングを続けています。
 
 
 
○人がいなくなるということ
 割と好きな映画かもしれない。綾野剛松田龍平がなんだか仲良くなっていく話、ぐらいの認識で観始めたけれど、主演二人の感情の機敏がとてもよくできていて、台詞は少なくとも集中して観ればどんな気持ちかがわかる。よい映像だったと思う。
 話の筋や結末の曖昧さがよく指摘されるそうだけど、本作は「いなくなった人が見つかった/見つからなかった」結果の話ではなくて「人がいなくなる」という出来事の話であると思うので、たぶん日浅(松田龍平)がどうなったかというのはあまり関係ないのではなかろうか。それが本作の震災の喪失に対する姿勢というか、表現の仕方であるのだと思う。だって震災は「人がいなくなる」ということが数え切れないほど起きた出来事だったのだから。残された今野(綾野剛)はニジマスと一緒に思い出して、川に流していくしかない。
 
○食う、食われる
 当たり前だけど、釣りとは生き物に生き物を食わせて獲る行為なのだなと思った。作中にはいろいろな「食う、食われる」の描写があり、おそらく人間を囲んでいてそれを飲み込むこともある自然(=水)のことを言っているんだろう。が、個人的にはそういう「食う、食われる」の関係が日浅と今野、もしくは日浅と周囲の人間の間にもあって、結構地続きのことのように描かれている印象を受けた。
 父親から学費や仕送りと称してお金を騙し取っていたり、営業の仕事の契約を同じ人に何回も取らせたり、日浅は人間関係においては「食う」側の人間である。劇中、日浅が今野に石榴を渡して食べさせ、「石榴の実は人の肉と同じ味がするんだって」という場面があるが、日浅が「食う」人であることをよく表した台詞だと思う。「食われる」方である今野は、自発的には一粒をちびりと食べることしかできない。
 
○裏っかわの一番濃いところ
 いちど日浅にキスをしようとした今野に対して、日浅は「知った気になんな」と言う。「おまえが見たのはほんの一瞬光が当たったとこだけだってこと」と。先に起こる震災がきっかけで今野が知る、日浅の「影」の部分があることを示唆する台詞である。日浅は続けて「人を見るときは裏っかわ、影の一番濃いところを見んだよ」と言うが、これを聞くと、今野に無理やりキスをされた翌日もけろっとしている日浅のことが少し分かった気になれる。
 つまり、日浅はあの夜露出した今野のセクシャリティを「裏っかわ」と捉えたから、翌日彼に「おまえの川連れてけよ」と言うのだ。いつも勝手に家に来たり勝手に約束を取り付けていく日浅が、今野に「連れて行け」と言うのはたぶんここが最初で最後だ。「おまえの川」とは、日浅の影響で釣りを始めた今野が自分で見つけた上流のスポットのことだ。上流のもっと深いところ、その日は雨の後で淀んで影のように暗い色になっていた、深みに連れて行けよと言ったのである。
 
○明るいところを見たい
 上に書いたように、映画のテーマの一つでもある「光が当たった明るいところ/影の暗いところ」という概念はそのままライティングに反映されていて、照明が非常に綺麗な映画だった。場面によって画面の明暗の差が激しく、テーマとつながっている。
 特に最後の契約書を見て今野が泣く場面では、帰宅して封筒を見た今野がソファに座って封を開け中を読み、窓を見つめて慌ただしく書類を探し、日浅の筆跡を見つけて泣く一連のシークエンスの間、画面が明るくなったり暗くなったり極端なグラデーションを繰り返す。ここは、日浅の「影」の一部を知った今野が、日浅の「どこを見るのか」を逡巡せざるを得ない場面なのだと考えた。そして泣いている今野の顔に窓から強い光が差すということは、諸々鑑みて結論めいたものを出すのなら「明るいところを見たい(見たかった)」というようなことになるのだと思う。泣いている今野が見ているのは、座っている部屋の場所からして光が差している窓の方だ。髪が短くなった日浅がふらりと帰ってきた方を見ていたのではないかな。

「と」:『ヤクザと家族』

『ヤクザと家族 The Family』2021年日本 136分
監督・脚本:藤井道人
音楽:岩代太郎
 
実は同監督作の『新聞記者』は未見なんですよね。映画の概要だけは知っていて、シム・ウンギョンが主演女優賞を獲ったのを喜ばしく眺めていただけなので、近く鑑賞したいです。
 
○「と」の壁
 タイトルの『ヤクザと家族』は、前半を観ている間どうして「と」なんだろうと思っていた。父親と思えない父親を亡くして「行くところがなくなった」主人公(賢治/綾野剛)が、地元の柴咲組というヤクザの組に拾われる。ヤクザ「と」ではなく、ヤクザ「が」家族になるということではないの?
 ところが、若頭の身代わりとなって懲役刑を終え、出所した2019年のパートが始まった映画の後半になって、「と」が効いてきた。
 本作は、「時代の流れでどんどん肩身が狭くなったヤクザにも家族がいる」という視点であるという意味で、「ヤクザと(いう生き方の人たちと)家族(という概念の関係)」の物語といえる。が、個人的には、「時代が変わるにつれて『ヤクザ』という言葉から『家族』という意味が離れていく」物語と読んだ。言い換えれば、2019年のパートにおいて、「ヤクザ」という言葉は今現在の「家族」という言葉の範疇に入っていない(入ることを許されない)ということだ。
 本作は、タイトルクレジットまでのシークエンスが約20分ほどあってやや長めである。賢治が柴咲組にたどり着き、舘ひろしの親分と杯をかわして『ヤクザと家族』とタイトルが出る。賢治と親分が「親子」となった1999年から、刑務所に入る2006年までの間は、(実際のところはどうなのかわからないけど)「ヤクザ」とは間違いなく「家族」として描かれている。しかし、14年の刑期を終えて出所してくると、2019年において「ヤクザ」とはもはや「家族」ではなくなっている。
 年老いた柴咲組の親分や若頭が賢治に何か一言かけていく度、「ヤクザ」という言葉から「家族」という意味はぼろぼろと剥がれ落ちていく。一瞬手に入れた由香(尾野真千子)と娘の彩の実際的な「家族」も、賢治という「ヤクザ」から物理的に引き剥がされる。決定打は「ケン坊、おまえ、組抜けろ」という親分の一言、そして彼が亡くなるときの「ケン坊、家族大事にしろよ」「はい」というやりとりで、「ヤクザ(=賢治)」から「家族」の最後の一片が剥がれ落ちる。「ヤクザ」と「家族」という二つの言葉の分断の物語であるように思えた。
 そして「家族」をいっぺん残らず引き剥がされてしまった賢治は、「ケン坊、家族大事にしろよ」という親分の言葉を、そのまま翼に「愛子さん大事にしろよ」と手渡して、最後に翼の代わりに罪を重ねる。つまり翼を「ヤクザ」ではなく「家族(=愛子/寺島しのぶ)」の方へと押しやり、その分断をより一層確かなものにして死んでいくのである。
 個人的に素晴らしいなと思ったのは、それまで「次の新しい世代」の代表のように扱われていた翼が、自分よりもさらに下の世代である賢治の娘と出会って終わるというエンディングだった。彩が物語上何も知らない無垢な天使として除け者にされていなくてほっとした。
 
 
○痛みと綾野剛
 確か『パラサイト』が公開されて話題になった時期だと思うのだけど、ポン・ジュノが『怒り』(2016)の綾野剛を観て「歩く傷」と表現したことがあったのを思い出した。
 
 言われてみれば確かに、肉体的であれ精神的であれ「痛い!」という演技がうまい人だなという印象はある。本作でも、「ヤクザ」という言葉から「家族」が剥離していく痛みは、賢治自身から「家族」という皮膚がぼろぼろと剥がれ落ちていくような身体的な「痛み」として、綾野剛の身体を通して表現されていたように思う。よい映画を観た。

罵倒語とエンジン音:『日本で一番悪い奴ら』

『日本で一番悪い奴ら』 Twisted Justice 
2016年日本 135分 日活/東映
監督:白石和彌
脚本:池上純哉
原作:稲葉圭昭『恥さらしー北海道警察 悪徳刑事の告白ー』
出演:綾野剛/YOUNG DAIS/植野行雄 他
 
 『MIU 404』を観た流れで観賞。
 
 綾野剛、ちょうど同じぐらいの時期にやっていた『新宿スワン』を観てなんだかヤバい俳優だなと思ったあと、『怒り』以降認識が止まっていたので、このちょうどよい機会にちょろちょろ観ていきたい。
 動きのうまい素敵な俳優だと思う。冒頭の柔道一筋だった頃のまっすぐな鉄の棒のような動きから、80年代半ばに入ってほぼやくざ者になったときの身のこなしの変わり様がとてもいい。直線からジグザグの線へ、角は鋭いまま折れ曲がっていく変わり方が観ていて気持ちがよかった。喋り方もハキハキした愚直な感じ(「押忍!」)からバイクのエンジン音の様なやくざっぽい喋り、最後は酒と薬で様変わりしたガラガラの嗄れ声へと見事な変化で、自分の体を使うのがうまい俳優なんだなという印象を持った。
 自分は役者が芝居の中で見せる仕草、くせ、所作のようなものを観察して見つけるのが大好きだ。松岡茉優の語尾の上がり方とか、ベン・ウィショーのものを触るときの演技とか。新しく「おっ、この人は」と思った俳優を見つけると、そういうその人ならではの身体の使い方も見つけたくなる。その過程ほどおもしろいものはない。
 そういう意味では、未見の綾野剛の作品がまだまだあるというのは嬉しいことだ。本作では、結婚の報告をした舎弟に札束を渡す場面で、札束を腿にパシッ!と叩いて扇子のように広げて渡す仕草でなんかもう大好きになってしまった。あと普通の人間はクリームソーダを飲んだ後にあんなにいいタイミングでゲップは出ない。どういう身体してるんだろう?
 
 
○「悪の主人公」への距離
 白石和彌作品を観たのは初めてでまだなんとも言えないかなと思うけど、扱っている主題の割には諸星を変に美化したり、格好良く描いたりしていなくていいなと思った。観ていておもしろいけど主人公に感情移入するような構造ではないというか、悪事に手を染めていく主人公を決してヒーローのように描いたりはしないというか。
 この距離の取り方はなんとなく吉田大八に似ている気がする。吉田大八の『クヒオ大佐』(2009)という、堺雅人が実在した結婚詐欺師を演じたすごくおもしろい映画があるのだけど、こちらも詐欺を働く主人公を決して美化せず、正体の見えない不可解な人として描いていたのが印象に残った。ちなみに吉田大八の最新作は大泉洋主演の『騙し絵の牙』(2021)で、こちらもタイトル通り「騙し」が主題になっていたけど、やはり『クヒオ大佐』のように「距離が取れている」という印象を持った。
 『クヒオ大佐』のように、白石和彌の描いた諸星も、ちゃんと距離が取れている。この辺りは、最終的に「追求されていない道警の組織的犯罪の疑い」という方向に映画が帰着していくからというのは大きな理由の一つであると思う。というかそれが映画の趣旨なんだろうし、たぶん原作もそういう感じなんじゃないだろうかと推測する。
 
 
○罵倒語とエンジン音
 本作の演出で一番おもしろいなと思ったのは「罵倒語」だった。警察とチンピラとやくざが大勢出てくる本作は、もうほとんどの台詞の語尾に「テメェコラ」がついてるんじゃないかと思うくらい言葉遣いが激しい。その湯水のように溢れる「罵倒語」が、まるで効果音かサウンドトラックのように扱われているのがいちばん面白かった。
 映画の前半で、諸星(=綾野剛)と黒岩(=中村獅童)が初対面で互いに凄い勢いで罵倒しあった後なぜか仲良くなっちゃう、という場面がある。カットは素早く二人の切り替わりを繰り返して「罵倒語」が飛び交い重なり合い、正直なんと言ってるのか聞き取れないところもあるのだけどたぶんそれで大丈夫なんだと思う。聞き取れないけど巻き舌がきれいに入っていてなんか聞いてて気持ち良くもなってくる。バイクを飛ばす前の「ブオオォン!!」というエンジン音のようなものなのだ、たぶん。
 そんなバイクの「ブオオォン!」=「なんだテメェこの野郎!」/その他の罵倒語 が、諸星が違法捜査でどんどんのし上がっていく中盤は雨霰と降り注ぐ。そして最後、都合が悪くなり夕張に飛ばされた白髪混じりの諸星の声は、今にもエンジンが切れる古いバイクのような嗄れ声になっているのだ。やっぱ俳優ってすごいなー。