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ひとり映画感想文集

「と」:『ヤクザと家族』

『ヤクザと家族 The Family』2021年日本 136分
監督・脚本:藤井道人
音楽:岩代太郎
 
実は同監督作の『新聞記者』は未見なんですよね。映画の概要だけは知っていて、シム・ウンギョンが主演女優賞を獲ったのを喜ばしく眺めていただけなので、近く鑑賞したいです。
 
○「と」の壁
 タイトルの『ヤクザと家族』は、前半を観ている間どうして「と」なんだろうと思っていた。父親と思えない父親を亡くして「行くところがなくなった」主人公(賢治/綾野剛)が、地元の柴咲組というヤクザの組に拾われる。ヤクザ「と」ではなく、ヤクザ「が」家族になるということではないの?
 ところが、若頭の身代わりとなって懲役刑を終え、出所した2019年のパートが始まった映画の後半になって、「と」が効いてきた。
 本作は、「時代の流れでどんどん肩身が狭くなったヤクザにも家族がいる」という視点であるという意味で、「ヤクザと(いう生き方の人たちと)家族(という概念の関係)」の物語といえる。が、個人的には、「時代が変わるにつれて『ヤクザ』という言葉から『家族』という意味が離れていく」物語と読んだ。言い換えれば、2019年のパートにおいて、「ヤクザ」という言葉は今現在の「家族」という言葉の範疇に入っていない(入ることを許されない)ということだ。
 本作は、タイトルクレジットまでのシークエンスが約20分ほどあってやや長めである。賢治が柴咲組にたどり着き、舘ひろしの親分と杯をかわして『ヤクザと家族』とタイトルが出る。賢治と親分が「親子」となった1999年から、刑務所に入る2006年までの間は、(実際のところはどうなのかわからないけど)「ヤクザ」とは間違いなく「家族」として描かれている。しかし、14年の刑期を終えて出所してくると、2019年において「ヤクザ」とはもはや「家族」ではなくなっている。
 年老いた柴咲組の親分や若頭が賢治に何か一言かけていく度、「ヤクザ」という言葉から「家族」という意味はぼろぼろと剥がれ落ちていく。一瞬手に入れた由香(尾野真千子)と娘の彩の実際的な「家族」も、賢治という「ヤクザ」から物理的に引き剥がされる。決定打は「ケン坊、おまえ、組抜けろ」という親分の一言、そして彼が亡くなるときの「ケン坊、家族大事にしろよ」「はい」というやりとりで、「ヤクザ(=賢治)」から「家族」の最後の一片が剥がれ落ちる。「ヤクザ」と「家族」という二つの言葉の分断の物語であるように思えた。
 そして「家族」をいっぺん残らず引き剥がされてしまった賢治は、「ケン坊、家族大事にしろよ」という親分の言葉を、そのまま翼に「愛子さん大事にしろよ」と手渡して、最後に翼の代わりに罪を重ねる。つまり翼を「ヤクザ」ではなく「家族(=愛子/寺島しのぶ)」の方へと押しやり、その分断をより一層確かなものにして死んでいくのである。
 個人的に素晴らしいなと思ったのは、それまで「次の新しい世代」の代表のように扱われていた翼が、自分よりもさらに下の世代である賢治の娘と出会って終わるというエンディングだった。彩が物語上何も知らない無垢な天使として除け者にされていなくてほっとした。
 
 
○痛みと綾野剛
 確か『パラサイト』が公開されて話題になった時期だと思うのだけど、ポン・ジュノが『怒り』(2016)の綾野剛を観て「歩く傷」と表現したことがあったのを思い出した。
 
 言われてみれば確かに、肉体的であれ精神的であれ「痛い!」という演技がうまい人だなという印象はある。本作でも、「ヤクザ」という言葉から「家族」が剥離していく痛みは、賢治自身から「家族」という皮膚がぼろぼろと剥がれ落ちていくような身体的な「痛み」として、綾野剛の身体を通して表現されていたように思う。よい映画を観た。