内側を向く勇気の話:『ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り』
はじめに
Twitterのタイムラインに大量にその話題が流れてきて、観ていないのになんだかもう観てしまったような気持ちになる映画がないだろうか。私はある。
内向きな勇者たち
ミトンと芋
関連作品?
Anyone can wear the mask:『スパイダーバース』から始まる誰もがマスクを被れる世界について
はじめに
- はじめに
- "Anyone can wear the mask" の時代
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- Anyone :『エターナルズ』の多様性ある「ふつう」
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- おわりに
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トム・クルーズ映画からみる「壮年のマーヴェリック」までのイメージ
はじめに
80年代〜90年代のイメージ
M:IとM:I-2
M:I-3、もしくはベンジー以後
壮年のトム・クルーズ
おわりに
再生ボタンを押す力を得る:『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーvol3』
ジェームズ・ボンドの鮮やかな上昇:「下降」と「上昇」から見るクレイグ・ボンド、または『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(架空)考察
『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』を観ました。もう三回観ました。初日とその翌日に一回づつ、あとさっきも観てきましたが、何から話し始めればいいのかまだわかりません。
0.ことの経緯
『カジノ・ロワイヤル』(2006)
『慰めの報酬』(2008)
『スカイフォール』(2012)
『スペクター』(2015)
『ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2021)
トランクの中の聖域:「モノ」と「境界線」から観る『ファンタビ』
ファンタビ3作目のタイトルが発表されたので、記念に去年頒布した本に収録したファンタビ考を投稿します。もともとここにあった記事を加筆修正したものです。二作目に関する考察を書き足しています。
私はJKRのトランスジェンダーに関する見解には賛同できません。物語の続きが語られるのは楽しみではありますが、複雑な気持ちでもあります。主演した俳優たちが賛同しない意を表してくれたことにはとても勇気づけられました。
***
1.ジェイコブ・コワルスキーと世界で一つのトランク
JKRの世界は「モノ」が意思を持つ。杖が魔法使いを選び、嗅ぎタバコ入れは噛み付き、帽子が歌い出す。ゴブレットをネズミに変えたりティーカップをジョギングさせたり、人間が魔法をかけることで人為的に「モノ」に意思のようなものを持たせることをも可能だ。しかし魔法界には、まるで「モノ」がひとりでに意思を持ったかのような、誰に言われるでもなく元から「生きて」いるかのような、「生きモノ」たちが大量に(大勢?)存在する。
辻井朱美「「モノ」語りの宇宙」(『ユリイカ』2016年12月号、青土社)は、ハリー・ポッターの世界を「モノ」という視点で見た興味深い論考である。原作の小説では、「モノ」たちは背景として存在するだけだったが、視覚的に再現された「モノ」が持つ過剰なエネルギーについて論じられている。JKRの魔法界は、動き回る「モノ」たちによって活性化され、観る者に「開放感」を与えるというのだ。
辻井によれば、そういった「モノ」たちの延長線上に、魔法動物は存在する(厳密に言えば、動物のようなそうでないような生き物たち(守護霊やアニメーガス)も存在する)。そして、『ハリー・ポッター』においては、ハグリッドがそんな魔法動物たちを理解し彼らと共存しようと訴え続けてきた。興味深いのは、5作目『不死鳥の騎士団』において、アンブリッジの権力により学校がコントロールされる前半部分ではハグリッドは不在であるという辻井の指摘である。DA(ヴォルデモートから身を守るためにハリーを中心に結成された「闇の魔法に対する防衛術」の集会)に所属する子供達が習得した、動物の姿をした大量の守護霊が登場するのはすぐその後の展開だ。
私がもっとも興味を惹かれたのは、論考の一番最後の段落に書かれた「「モノ」が生きて動く世界には、真の意味での終焉は存在しない」という一文である。ホグワーツの校長室に飾られた歴代の校長たちの中にダンブルドア(とスネイプ)が加わり、死者が永遠の存在となることを示した最終巻の場面のことである。
ここからは私の論考だ。『ファンタビ』は、ニュートのトランクのような「モノ」が非常に重要な役割を与えられているばかりか、魔法動物たちが「モノ」の延長線上の存在である事が『ハリー・ポッター』よりもはっきりと描かれている。『ハリー・ポッター』では、「モノ」としての役割を与えられている動物は滅多に登場しない。馬車を引くセストラルぐらいだろうか。動物を動力や乗り物という「モノ」的な扱いをすることに対して、旧シリーズはかなり慎重な姿勢を見せる。ヒッポグリフが登場した『アズカバンの囚人』を通して語られるバックビークの物語にはそれが顕著に現れていよう。
ところが、『ファンタビ』にはそうした場面は今のところはっきりと出てきていない。ニュートがボウトラックルをピッキングに使ったり、躊躇なくケルピーやズーウーに乗り、スウィーピング・イーヴルをティナの踏み台にさせるのは、もちろん彼が既にそれらの動物たちと信頼関係を築き上げ、尊重して扱っているからに他ならない。作中でもっともニュートの手を焼かせているニフラーは、宝石店に自分を探しにきたニュートの目を逃れるためにじっと動きを止め、「モノ」のように振舞って見せることさえする。ついでに言えば、ニフラーは「光るモノが好きで巣に溜め込む」という習性を持っている、物欲のある、「モノ」に執着する魔法動物である。
そういった魔法動物たちを(まるで「モノ」のように)持ち運ぶツールであるトランクだが、『ファンタビ』には手作りのパンが入ったもう1つのトランクが登場する。ニュートとジェイコブは、トランクという「モノ」によって繋がっている。冒頭のトランクの取り違えは、彼らのトランクが見た目が良く似ている、つまり一見交換可能なものであるから起こった事だ。この「交換可能」なものとそれに対する「交換不可能な唯一のもの」という概念は、作品を通してジェイコブにつきまとっている。缶詰工場で働いていたが、それが嫌になりパン屋になって人を幸せにしようと決意した、という彼のバックグラウンドはまさにそれを表しているだろう。工場という全く同一の交換可能なものが生産される場所を拒否して、彼は「唯一のもの」になろうとするのだ。それは、『ハリー・ポッター』でマグルという名のもとに一括りにされた魔法が使えない退屈な存在(つまり、私たち読者)を、「唯一のもの」であると肯定しようとする作業であるとも言えよう。
映画の終盤で、ジェイコブは嫌な記憶を消す作用があるサンダーバードの雨に打たれようとする。引き止めようとしたクイニーに彼は「There's lots of like me(俺みたいなやつなんて沢山いる)」と卑屈になるが、彼女は「No. There's only one like you!」あなたみたいな人ほかにいない)」と、彼がパン屋になるより早くジェイコブの唯一性を肯定するのである。ニュートのトランクという「この世に1つしかない唯一のモノ」を取り違えて出会うという冒頭の場面は、ジェイコブが自身を肯定する結末を示唆しているようにも考えられる。ニュートのトランクは一見交換可能な普通のトランクだが、中には魔法の巨大な世界、つまりニュート自身の持つ世界で一つだけの空間が広がっている。ジェイコブも最終的には、トランクの中という限定された空間にしかなかったパン屋の夢を、ニューヨークの街に実際のものとして拡張することに成功する。さらに、店内には彼が無意識のうちに作った魔法動物の形をしたパンが(まるでニュートのトランクの中のように)所狭しと並んでいるのだ。コワルスキー・ベーカリーは、ジェイコブ自身の「魔法のトランク」なのである。
言うまでもなく、ニュート・スキャマンダーの持つトランクは彼の内面の象徴である。人よりも動物が好きでいつも人間からなんとなく目を逸らしているニュートにとって、トランクという自分の世界は本来不可侵の領域であり、おそらく滅多に他人を入れない場所であるということは想像に易い。ところが、ニュートはジェイコブにだけは出会った当初からかなり好意的な態度をとっている。怪我の手当てをしなければならなかっということもあるだろうが、餌やりを任せたり自分のこと下の名前で呼ぶよう言ったりする。それはおそらく、ジェイコブが自分と同じ「トランクを持つ人」であり、さらにその中に焼きたてのパンという「自分の世界」を持っている人であるからだろう。故に、ニュートはジェイコブの「トランクの中身」を知ろうと彼に色々と質問するのだ。「人に好かれるでしょう?」「どうしてパン屋になろうと思ったの?」と。死刑にされかけるニュートがジェイコブにかける言葉も「I hope you got your bakery(自分のパン屋が持てるといいね)」であり、実際そのためのオカミーの卵がギッシリ詰まったトランクさえ与えた。自分の世界を持とうとする、もしくは既に持っている生き物に対して、ニュートはとても寛容なのだ。
(「自分の世界」ということに関して言えば、無意識に他人の心を読み取ってしまう開心術師のクイニーと、強固な自分の世界を持っているニュートの間にはある種の緊張関係がある。それは、ニュートとジェイコブが姉妹のアパートに招かれた際、こっそりドアノブに手をかけようとするニュートにクイニーが「Hey Mister Scamander, you prefer a pie or a studel?(スキャマンダーさん、あなたはパイとストゥーデルどっちが好き?)」と声をかけ、有無を言わさず食卓に着かせるという場面から始まっていよう。自分の世界観があれほどにもはっきりしているニュートにとって、常に自分の世界に他者の声が入り続けているクイニーは少々不思議な存在であろう。)
『ファンタビ』の舞台である1926年のアメリカでは、魔法動物は犬や猫といった普通の動物とは違い、姿形や性質、習性を社会から危険視される「はぐれ者」である。特に、姿形と自身の意思のつながりは『ハリポタ』を含めたこのシリーズにおいて重要だ。だんだんと自分の姿のコントロールが効かなくなっていくマレディクタスのナギニと、感情と力が暴走して人の形を保てなくなるクリーデンスは、そういった意味でつながりを持っている。動物に変身できるアニメーガスは強力な魔法使いしか習得できない魔法である。自分自身がどのような姿になるのかという決定権は、この世界では強さに繋がるのだ。逆に、否が応でも月一回変身してしまう人狼は、それゆえに悩み苦しむことになる。
ニュート・スキャマンダーはいわばはぐれ者(はぐれモノ)の収集家であり、彼自身の内的性質と社会から疎まれる動物たちにつながりを見出していると考えられよう。「彼自身の内的性質」とは、つまり、「はぐれ者に愛着を持ち収集し、ゆえに彼自身もはぐれ者となる」という、動物たちなしには成立しないものであることにほかならない。無数の魔法動物たちが住むニュートのトランクにおいては、彼らが無数の多様な生き物であるがゆえに、「普通」と「おかしなもの」が二極化している当時の魔法界の価値観が引く境界線(劇中のピッカリーの台詞’There's no obscurial in America’これを体現する)が意味をなさなくなる。そして、劇中で魔法動物たちがニューヨークに飛び出すことで、アメリカの魔法界が引く境界線をも揺るがしてゆく。ニュートのトランクの中は、普通の人間の姿をしたニュートを含む生き物たちがあまりにも多様であるが故に、その境界線が曖昧になる空間なのだ。そういった彼の心の中に、観客は彼と同じ「トランクの中の自分の世界」を持ったマグルであるジェイコブを通してアクセスするのだ。
2.ゲラート・グリンデルバルドと青い境界線
前項に書いたピッカリーの台詞、’There's no obscurial in America’についてもう少しクロースアップしたい。というのも、この台詞は二作目以降の魔法界に大きく関わってくると考えられるからだ。
まずはこの台詞が発された状況を簡単に整理したい。この台詞は、一作目でティナがニュートとジェイコブをトランクごと会議中のホールに持ち込んだときにピッカリーが言っていたものである。英国魔法省の魔法大臣を含む世界各国のトップが集まっている会議で、ピッカリーはニューヨーク市議会議員であるヘンリー・ショーの死因がオブスキュリアルによるものではないのかと責任を問われていた。obscurial (オブスキュリアル)とは、シリーズ中でおそらく鍵になるであろう特性を持った魔法使いのことを指す。魔法の使い方を学ばないままその力を強く抑圧されると、力が暴走して周囲の生き物を傷つけてしまうまでになる。オブスキュリアルという言葉はそんな力を持つ魔法使いのことを指し、力そのもののことをオブスキュラスという。
英語のobscure(オブスキュア)という語をオックスフォード英語辞典で引いてみると、「はっきりわからない(uncertain)」「重要でない、知られていない(not important or well known)」「はっきり表現できない、理解できない(not clealy expressed, or easily understand) 」と出てくる。曖昧なものというような意味があるようだ。
何が言いたいかというと、ピッカリーの台詞は二重の意味を取ることができるのではないかと思うのだ。ただ単に「アメリカにオブスキュラスを持つ者はいない」という意味の他に、「アメリカには曖昧なものなどない」と言っているように聞こえる。個人的にはこの善悪の単純化というか、つるりとしたプラスチックのような正義感が非常にアメリカっぽくて好きなのだが、しかしこの「曖昧なものを許さない」という姿勢は、誰あろうグリンデルバルドのそれでもある。ピッカリーのこの台詞は、シリーズがこの先曖昧なものが許されない世界、敵か味方かはっきりしないものが許されない世界、すなわち戦争の世界へと入っていくことを示唆していると考えられるのである。
一作目ではジョニー・デップのカメオ出演的扱いだったグリンデルバルドは二作目からいよいよ主要なキャラクターとして登場し、曖昧さを次々と「分断」という行為によって潰してゆく。そして、『黒い魔法使いの誕生』のクライマックスが示したように、グリンデルバルドが分断するのは魔法使いとマグルだけではない。ペール・ラシェーズ墓地で彼は自分の周りに青い炎で大きな円を描き、自分の側に付く者だけがこの炎を通り抜けることができると言う。この場面で魔法使い同士、仲間同士の分断が行われ、ティナとニュートを除いてカップリングされていた男女のいずれかが引き裂かれてしまう。
ピッカリーの一作目での台詞に対するものは、魔法動物と自分と外の世界の境界が曖昧なニュートその人であった。トランクの中身が出てしまうという展開自体、彼の曖昧さを表しているとも考えられる。「トランクの中身が勝手に出てしまう」ことは二作目にも登場し、クイニーがフランス魔法省の受付にやってくる場面がこれに当たる。ニュートのそれとは対照的にこちらは非常に居心地が悪く、恥ずかしい思いをするものとして描かれているところも注目すべき点だろう。もはや自分と外の境界が曖昧になることは許されないのだ。
二作目の冒頭、魔法省に曖昧な態度を取り続けるニュートに痺れを切らしたテセウスはこんなことを言う。「Pick a side. Even you.(どちらの側に付くか選ぶんだ。たとえお前でも)」。ニュートはもちろん「i don't do side.(どっちの側にもつかない)」と返すが、実際にグリンデルバルドと相対し、リタが死んで悲しむ兄を抱き締めた彼は最後にこう言い直すのだ。「I chosen my side.(どっちの側に付くか決めたよ)」と。一作目を通して「曖昧さを愛する曖昧な人」であったニュートでさえもそれを押し込めたこの台詞と、ダンブルドアがグリンデルバルドとの境界をこれ以上ないほど曖昧なものにしていた血の契りを破ろうと決意する場面を以てして、『ファンタスティック・ビースト』は戦火の魔法界へと突入してゆくのだ。
本シリーズにおけるトランクとは、前項でも述べたように「自分の世界」「頭の中」である。これから魔法界が戦争の世界へ入っていくならば、グリンデルバルドが分断のために引いた線が太くなればなるほど、ニュートのトランクも彼がその曖昧さを守るべき個人的な空間としてますます意味を持つようになる。「自分の世界」で築いたいかなる関係、動物やパンやあらゆる物語との関係は、たとえ誰に何を言われようと不可侵のものであるべきだからだ。
個人的には、『ハリー・ポッター』でもそうだったように
「リディキュラス(ばかばかしい)」の呪文が登場すると魔法界は近いうちに戦争状態になる、と思っている。辛い状況へのカウンターのように登場するこの呪文は、『ファンタビ』でもダンブルドアがボガート退治の授業で子供時代のリタとニュートに教えていた。この先のシリーズが暗くなる一方だとしても、魔法動物たちやニュートの穏やかな場面が不可侵のものとして多くあることを祈るばかりである。
*本稿は2020年6月にnoteに投稿した記事を加筆・修正したものです
クレイグ・ボンドを語るための思考実験
去年発行した映画考察本に載せた記事です。8月に本ブログに投稿した記事が元になっているので、そちらはこの記事の公開に合わせて非公開にします。
2020年の夏から秋にかけて、つまりまだ一度目の延期期間(2020年11月の公開を待っていた状態)に書いたものです。これを書き終えるや否や二度目の延期のニュースが耳に入ることを以下を書いている私はまだ知りません。
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007の新作、『ノー・タイム・トゥ・ダイ』(以下NTTD)が公開延期になってしまったことが、仕方のないこととはいえとても悲しい。でも、どうせなら11月までに過去の007映画を全部観て、あわよくば関連作とかも全部観て、当たれる文献も目を通せたら、NTTDを既に観たという設定で架空レビューとか書けるんじゃないか、とポジティブに考えることにした。007シリーズは沢山あるのでゆっくりと目を通していくことにして、ダニエル・クレイグの出演作とか、サム・メンデスの映画を観たうえで改めてクレイグ・ボンドを語ってみたら面白いんじゃないだろうか。NTTDの架空レビューを書いたとしても、書くために観た映画や持った感想は架空ではないのだし。
と、いう経緯で始まった思考の流れを書いていこうと思います。ちなみに007は『死ぬのは奴らだ』まで観ました(2020年3月末時点)。今のところショーン・コネリーのボンドがかわいくて仕方ないです。ロジャー・ムーアはいきなりサメとかワニとかと戦って大変だと思う。
1.サム・メンデス版ボンドが終わらせようとしているもの
とりあえず、サム・メンデス版ボンドの好きな部分を2つ並べるところから始めてみようと思う。
・サム・メンデスの007映画はどちらも素晴らしいと思うけど、どちらか一つと言われたら『スカイフォール』を取る。それまで007は大昔に『ドクター・ノオ』を観て挫折した以来観ていなかったのだけど、『スカイフォール』はほんとうにおもしろかった。多くの場合でスパイが戦うのは外部の敵だけど、その過程でサブプロット的に登場する内部で発生した敵を主なヴィランに据えるという構成を取っているのがとても好みだった。そしてそのヴィランとボンド自身の過去を繋げようとする、内省的で個人的な、あまりスパイ映画らしくない印象だったのも好きな理由の一つで、これと同じ理由で私は一番最初の『ミッション・イン・ポッシブル』が好きだったりする。
・『スカイフォール』は、ボンドを「廃船」「老犬」と呼ぶところからスタートする。もう若くない、死ぬ前に引退するか引退する前に死ぬかどちらかのことがすぐに起こるだろうという感じのボンドを、最後にもう一度前線に引っ張りだす、そういう軸が一本『スカイフォール』『スペクター』には通っている(憶測だけど、たぶんNTTDにも)。ダニエル・クレイグのボンドを「終わらせる」ための物語、というのが自分のサム・メンデス版ボンド映画への基本的なイメージである。
そして、たぶん、「終わらせ」ようとしているのは、ダニエル・クレイグのボンドそれ自体だけではないんじゃないのかな、というのがここで考えたいことだ。ジェームズ・ボンドという一大フランチャイズが抱えてきた揺るぎない男性性のイメージも、ダニエル・クレイグのボンドと一緒に葬ろうとしているんじゃないだろうか。
ショーン・コネリーのボンド映画をあらかた観て思ったのは、まるでフィルムスタディーズの教科書のような男性主義的な「視線」の描写が満載であるということだった。ショーン・コネリーのボンドは本当に魅力的でチャーミングだが、「ボンドは女を好きなように見ることができるが、女は決してボンドを見ることができない」という強固な視線の構造がある。歴史の教科書でも読むような気持ちで観てしまった。このほかにも観る人が観たら、ジェームズ・ボンドの男性性がいかに揺るぎないものとして描かれているかが分かるのではないだろうか。
シリーズを全て観ることをしないで1960年代と2010年代のボンド映画を比較してもあまり意味がないのは前提として、もしサム・メンデス版ボンド映画に横たわる「終わり」のイメージに付随するものがあるのであれば、こういった類の男性性なのではないかと考えた。
では次に、サム・メンデス版ボンド映画のどういうポイントが、それまでのジェームズ・ボンドらしからぬ(と推測できる)男性性の揺らぎを示唆しているのか、ということを考えてみる。
『スカイフォール』を観た時に「あれ?」と思ったのが、後ろ手に拘束されたボンドとシルヴァ(ハビエル・バルデム)が対峙する場面で、シルヴァがやたら意味ありげな手つきでボンドの顔周りに触れていたところだった。意味ありげというのは、とても曖昧な描き方だったと思うけど、性的なものとも取れなくもないような「意味ありげ」な手つきで、そんな風に触られたボンドは「what makes you think first time?」(初めてに見えるか?)と返す。あれ、ジェームズ・ボンドってバイセクシャルなんだっけ、とごく自然に考えた。
こう考えると、『スカイフォール』『スペクター』で起こっていると思われるボンドの男性性の解体が、ただサム・メンデス版に限ったことではないのではないかと思えてくる。
というのも、『カジノ・ロワイヤル』では、はっきりと男性性をはく奪されることを示唆されるような拷問のシーンがあったからだ。改めて観返してみた時、それまで不動のイメージがあったボンドの男性性が脅かされるような展開があるのか、とかなり驚いた。そして、ダニエル・クレイグ自体よく拷問に合っていなかったっけ、と思い至った。
2.ダニエル・クレイグ、「見られる」俳優
ここでもう少し視界を広げて、ダニエル・クレイグがどういう作品に出演してきたかというアプローチで考えてみる。
全ての出演作はカバーできていないが、ダニエル・クレイグは少なくとも「見られる」側の役を演じた経験がある俳優だろう。『愛の悪魔 フランシス・ベイコンの歪んだ肖像』(1998)、『Jの悲劇』(2002)、それからボンド以降では『ドラゴン・タトゥーの女』(2011)。もちろん『カウボーイ&エイリアン』(2012)のようなあからさまな白人男性ヒーローも演じてきたが、クレイグのフィルモグラフィの中に「視線の客体」というアウトラインは容易に引くことができるだろう。
男性性、というキーワードで引っかかってくるのは『ドラゴン・タトゥーの女』である。これを撮ったデヴィッド・フィンチャーの映画の多くは男性性がテーマになっており、『アド・アストラ』(2019)で有害な男性性と向き合ったブラッド・ピットも、フィンチャーの3本の映画で主演を務めた。フィンチャーの映画には、社会が規定した男性性に苦しむ人物がよく出てくるが、ブラッド・ピットの場合はキャリアとその作風の相性が非常にいいのだろう。ただ、『ドラゴン・タトゥーの女』にはルーニー・マーラが演じた強烈な女性ヒーローが登場し、主人公ミカエルは彼女に幾度となく助けられる。原作モノというのもあり、リスベットの存在によってミカエルはそれまでのフィンチャー映画に登場した男性像とは少なからず違ったものになっているのではないかと思う。どう違っているのかと聞かれるとまだ言葉にはならないのだけど。
そして実際、『カジノ・ロワイヤル』(2006、キャンベル)にはクレイグが明確な視線の対象となるようなショットがある。バハマのビーチで水着姿のボンドが海から上がるショットは、『ドクター・ノオ』(1962、ヤング)のボンドガールであるウルスラ・アンドレスの登場シーンそのものと言ってもいい(この場面も、コネリーのボンドがアンドレスを双眼鏡で見ている)。その直後に最初のボンドガールであるソランジュをボンドが一方的に「見る」という描写はあるにせよ、視線の対象となる裸体がクレイグとなっていることは確かだ。
実はクレイグは『スカイフォール』以前にもサム・メンデス監督作品に出演しており、『ロード・トゥ・パーディション』(2002)で彼はアメリカンマフィアのドラ息子を演じた。ポール・ニューマン演じる父親に愛されなかった悲しみを、彼とは対照的にその寵愛を一身に受けていたトム・ハンクスにぶつけようとする空虚な悪役である。にもかかわらず、彼は裸婦像のようにソファに寝そべり、煙草をふかす官能的なショットで登場する。後ろ手に拘束されたクレイグのボンドが、ハビエル・バルデムに顔や首回りを触られるという「受け身」の場面が『スカイフォール』にあるのも、これなら頷ける。サム・メンデスが持つクレイグへの一種のイメージなのだろう。
なにが言いたいかというと、サム・メンデスのボンド映画ではっきりと露出した(と私が考えている)ボンド的男性性の解体は、おそらくダニエル・クレイグという俳優を選択したところから始まっているのではないか、と考えられるということだ。
これは、歴代のボンド俳優がどういったキャリアを積んで、どんなイメージを持たれた上でボンドにキャスティングされたかを加味しないと論証できないところではある。しかし、「ボンドは女を好きなように見ることができるが、女は決してボンドを見ることができない」という男性主義の視線の鉄則が横たわっているこのシリーズに、視線の客体となる役を過去に演じてきて、ひょっとしたらそういうイメージがすでについていた可能性のある俳優をボンドにキャスティングするというのは、それなりに舵を切った選択だったと言えるのかもしれない。
さて、ここまで来ると浮かんでくるのは一つだ。ダニエル・クレイグをボンドにキャスティングしたのは一体誰なのだろうか?
3.ブロッコリ親娘とアップデート
映画プロデューサーのアルバート・ブロッコリは、イアン・フレミングの小説の映画化権を購入し、それ以来イーオン・プロダクションは『007 ドクター・ノオ』(1962)をはじめとするボンド映画を製作してきた。バーバラ・ブロッコリはアルバートの娘であり、『007 ゴールデンアイ』以降、異父兄弟のマイケル・G・ウィルソンと共同でシリーズをプロデュースしてきた。
ブロッコリとウィルソンは、007シリーズの制作において非常に強い発言力を持っている。『ニューヨーク・タイムズ』紙によれば、クレイグを6代目ボンドにキャスティングしたのもこの二人である。そして、注目するべきは、女性プロデューサーであるブロッコリが作中の女性描写を先進的なものとするよう注力してきたこと、そしてその中で特にクレイグ版『007』における女性描写は「これまでよりもはるかに現代的になっている」と話していることだ。
サム・メンデス版に限らずクレイグ版に登場するボンド・ガールたちがどのように現代的なのかは、検証すれば自ずとわかることだろう。クレイグ版だけでも、『カジノ・ロワイヤル』(2005)から『ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2020)までは15年の歳月が流れているので、MeToo運動の流れを含んだ大きな変化が見られるのは確かである。ブロッコリが制作を担当したのは1995年のピアース・ブロスナン版からだが、バーバラ・ブロッコリ以前・以後と区切って考えるとさらにはっきりした変化がわかるだろう。
(シリーズを全作鑑賞してみると、個人的にはやはり『ゴールデンアイ』を境に大きく変化しているように思う。ジュディ・デンチに交代したMがボンドの私生活を辛辣に批判するところも含めて、かなり自覚的になったと言えるのではないか。)
話を戻そうと思う。
なぜバーバラ・ブロッコリの名前を出したかというと、彼女が作中での現代的な女性描写に注力しているのであれば、自ずと男性キャラクターの描写にも変化があっても不自然ではないと思うからだ。男女平等を目指して進化していくのは女だけではないはずである。ボンド・ガールが進化しているなら、ジェームズ・ボンドだって進化しているのではないか。
そして、その進化の最新版がダニエル・クレイグのボンドなのではないだろうか。次作で5作目となるクレイグの6代目「最新版」ボンド(Ver.6.5.)は、これからさらに進化していく次のボンドのために、過去の伝統的なマスキュリニティのイメージを「引退」させるという役割を担っているように見える。バーバラ・ブロッコリによるシリーズのアップデートと、ストーリー上視線の客体となった経験のあるダニエル・クレイグという俳優、そしてそんなクレイグを客体的に映した経験があるサム・メンデスが合わさった結果、『スカイフォール』でボンド的男性性の「終わり」が大きく発露したのではないかと思うのだ。
『スカイフォール』は、 ボンドが一度「死ぬ」ところから話が始まる。彼が撃たれて川に落ちると、アデルが「this is the end(これで終わり)」と歌い出す。ボンドは自らの「過去」と対峙し、結果それを大量のダイナマイトで爆破してしまう。なんとも鮮やかな決別だ。こう考えると、私は『スカイフォール』の一連の「終わり」のイメージが、007シリーズにおけるマスキュリニティに別れを告げているように見えるのだ。
参考
A Family Team Looks for James Bond’s Next Assignment - The New York Times
2020年10月10日閲覧。
A female James Bond? Never, confirms executive producer | James Bond | The Guardian
2020年10月10日閲覧。
(本稿は2020年3月29日、5月13日にnoteに投稿した記事を加筆・修正したものです)