お足元が悪い中

ひとり映画感想文集

内側を向く勇気の話:『ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り』


はじめに 

Twitterのタイムラインに大量にその話題が流れてきて、観ていないのになんだかもう観てしまったような気持ちになる映画がないだろうか。私はある。

 『ザ・バットマン』とか『トップガン:マーヴェリック』とか……観てもいないのに、パティンソンのブルースの朝ごはんとか、ハングマンはいわゆる悪役令嬢的なキャラのそれだ的な、核心に触れないけど面白さはわかるうまい情報が流れてきて、どちらも妙な知識のある状態で映画館に行ったのを覚えている。
 『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(以下D&D)の場合はついに上映期間中映画館に行くことが叶わなかったので、私は数ヶ月近く「セクシーパラディン」という語をTLで浴びるように見ていながらも、それがなんなのかは全くわからないまま過ごしていたのだった。
 そんなD&Dがやっと配信に登場したので、レンタル代はちょっと高かったがようやく鑑賞することができた。この記事はその感想である。
 
目次
 

内向きな勇者たち

 感想としては、剣と魔法の世界の冒険という題材にしてはすごく内向きな物語というか、内省的というか、やわらかいところを通過した上でのヒーロー物語で、そういうところが喜ばれているんだろう、という感じである。私もそういうところが嬉しかったので……。
 映画『D&D』のメインキャラクターたちは、それぞれ致命的に苦手なことや出来ないこと、さまざまな事情を抱えており、それゆえに元々属していたコミュニティから離れざるを得なかった人たちだ。キャラクターの長所ではなく短所が物語の主な牽引力になっていて、最終的に彼らはそれと向き合うことになる。
 エドガンは離れ離れになった娘と亡くなったパートナーを取り戻すのが物語上の動機だが、そもそも失った原因が自分にあるという罪悪感ややるせなさにかなり蝕まれているように見える。パートナーが亡くなったのは10年以上前のことだろうが、それほど時間が経っているだけに、彼は多分どんなに元気でも半分ぐらいは落ち込んでいて、そのこと自体にも疲れているのかもしれない。
 上に書いたエドガンの動機は、それ自体が最後には意味をなさない、必要ないものだったことがわかる。それは彼がパートナーを取り戻したいと思って行動するのも、騎士の誓いを破ったのも、目の前にいる人を見ていない独りよがりなことだったと自分で声に出して言うからである。レッド・ウィザードと相対するよりも市民を助けるよりも前に、エドガンのハイライトはここにある。ホルガのバックストーリーやサイモンが抱えている問題も含め、みんながそれぞれ自分の内側に向かった、内省の物語を持っている。そして、この映画では、内側を向くというのは決してネガティヴなことではなく、勇気ある行動として描かれている。
 ソーサラーのサイモンが言う台詞で「魔法でなんでも解決できるわけじゃないんだ」「おとぎ話じゃなくて現実なんだから」というのがあるが、本作のテーマの一つであろう「剣と魔法の世界の住人がみんななんでもできると思うなよ」をよく表していると思う。こうしてそれぞれ事情が違うというのは、魔法でなんでも解決できるわけではないのと同じぐらい、普通のことなのだ。
 
 なんだか、ごく当たり前のことをダラダラ書いているように思えて不安になってきた。でも本作はそういう話だと思うのである。別のタイプのD&Dの映画が作られていたら、たぶん主人公は間違いなくゼンクだっただろう。この映画で清廉潔白な気高い騎士として登場する彼がすぐ去ってしまうのは、そういうわけなのではないかと思う。
 

ミトンと芋

 彼らの欠陥(これがそのまま彼らのキャラクターとして魅力的なところになっている)は、ハリウッド映画のステレオタイプ像からの逃げ道にもなっている。エドガン(クリス・パイン)は編み物をしたり歌を歌ったりとフェミニンな仕草が多く、対してホルガ(ミシェル・ロドリゲス)は大喰らい大酒飲みの戦士という、これまでなら男性キャラクターにあったような要素を持っている。面白かったのは、エドガンは戦士ではないからか武器らしい武器を持っておらず、ほぼずっとものすごく硬いリュート(楽器)で敵をぶん殴っていたところだった。
 『エターナルズ』(2021)もこういう描き方だったと思うが、エドガンが編み物を好んだりホルガがずっと芋を齧っている大喰らいであることに、特に意味はない。さらに言えば、エドガンのパートナーが亡き後二人が友人関係のまま子供を育てて、子供と離れた後も友人のままだったということにも、特に意味はないのだ。なんかただそういう普通の人たちなのである。そして、それを意味なくスクリーンに映すというのは、ものすごく意味があることだ。
 恋愛関係にはないパートナーというのは私個人にとってはかなり自然なことなのだが、フィクションで目にすることは少ない。ホルガとエドガンの関係が当然のものとして扱われている様子を見るのは、自分の中にあるものの存在を目の当たりにする安心感みたいなものがあった。
 

関連作品?

 観ていて思い出したのはちょうど最近Amazonプライムにやってきた『バッド・ガイズ』(2022)、それと『ヴェノム』(2018)なんかもそうかもしれない。どちらも「いろいろ事情はあるがとりあえず馬上でリュートを取り出す」感じの話である。
 
 『バッド・ガイズ』は「生涯嫌われ者だと思っていた悪役が自分の中の善に気づく」という話で、諸々のクライム映画の要素を動物が主人公のアニメーションにした楽しい映画だ。
 メインキャラクターのワルたちは人間と動物の中間のような姿をしているが、警察や一般市民は人間、猫やモルモットのような普通の動物もいる。ミスター・ウルフたち泥棒一味は正真正銘見た目の上でも「モンスター」で、周囲から恐れられ嫌われているという言外の説得力がある。話も面白かったが、この見た目の上での線引きが見事だった。
 「知らない自分になる」というウルフの感覚は多くの人が覚えのあるものだと思うし、嫌われ者として盗みを重ねてきた過去がその邪魔をしたりする。自分の中の善を発見したからといって、それがチャラになるわけではない……というような感じだ。ちなみに、この映画の「リュート」はスマホから流れる爆音の音楽である。
 『ヴェノム』は、海苔の佃煮みたいな見た目の地球外生命体が主人公の身体を乗っ取って最終的に共生するという話だ。こうして書くとなかなか怖い筋書きだが、よくわからないものが自分の中にある気味悪さは割とすぐに「もう一人の自分」「心の声」のように見えくる。それも抱えて一緒に生きよう的な、ヴェノムがエディの体内から出てくるという視覚的なところも含めて、主人公(たち)の内側に向かっている、それが付きまとう物語であるように見える。
 蛇足だが、『ヴェノム』は大人を主人公にしたスパイダーマン的物語のように見えて、私は結構好きだ。ピーター・パーカーが蜘蛛に噛まれて身体が変化する様子は、そのまま10代の身体が変化する様子に当てはめられるが、ここでは失業して不安定になっている大人というのがいい。ひょっとしたらコミックでもそうなのかもしれないが、ミシェル・ウィリアムズのブロンドにヘアバンド、スカートにブーツという風貌はグウェン・ステイシーのそれでもあって、二作しか作られなかった『アメイジングスパイダーマン』へのトリビュートのようにも見える。
 
 どちらも特別ではない人たちが主人公で、それぞれ事情があり、自分の中にたくさんある側面の一つを発見することがハイライトになる。だからといってその事情が魔法のように消えるわけではないのだが、まあそれはそれとして……(馬上でおもむろにリュートを取り出す)みたいな話だ。
 
 ところで、私は「パラディン」が何を指す語なのかがわからなくて鑑賞後に少しの間苦しんでいたのだが、これは「聖騎士」というような意味の、D&D内でのキャラクターのクラス(職業のこと。戦士や魔法使いなど)を表す語なんだそうだ。フォロワーさんその節はありがとうございました。つまり、セクシーパラディンとはセクシーな聖騎士ということだったのである。それは……まあそうだな……。
 

Anyone can wear the mask:『スパイダーバース』から始まる誰もがマスクを被れる世界について

 

はじめに

 「ヒーローがいっぱい増えて楽しい」という話をしようと思う。増えたというか、元々たくさんいたヒーローが映像化によって広く知られるようになったと言った方がいいかもしれない。もっと色々材料が出揃ってから書くつもりだったのだが、『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』(2023)が公開される今がいいタイミングに思える。というか、これ以上待ってもヒーローは増えるばかりで減ることはないと気づいた(当たり前では?)ので、今のうちにメモがわりにでも書いておこうと思う。
 
※注意事項
 この記事は以下の作品をゴリゴリにネタバレしています。気をつけてね。
スパイダーマン:スパイダーバース』
スパイダーマン/ファー・フロム・ホーム』
スパイダーマン/ノー・ウェイ・ホーム』
『アメンジング・スパイダーマン2』
 あと、私がDCについて物を知らなさすぎる関係で、この世にマーベルしかないみたいな語り口になってしまいました。DC映画の話は全く出てきません。ご注意を。
 
 
目次

"Anyone can wear the mask" の時代

 Twitterで密かによく言っているのだが、今はヒーロー映画における"Anyone can wear the mask(誰にでもマスクが被れる)"の時代である。
 これは『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018)の最後に出てくる締めの台詞の一つだ。主人公のマイルズは、本意でない転校や父親との関係に悩まされる中で蜘蛛に噛まれる。彼の世界のピーター・パーカーが命を落としたことによって、マイルズは次のスパイダーマンとなる「責任」を負うことになる。ただでさえ心配事が多い生活なのに、ヒーローの責任なんて負えるわけがない。自分にマスクを被れるわけがない、被る資格なんてない……映画の軸になっているのはマイルズのこうした葛藤だ。
 ピーターの最愛の人であるメリー・ジェーン(MJ)は、スパイダーマンの追悼スピーチでこう言う。
 
 We all have powers of one kind or another.  But in our own way, we're all Spider-Man.  And we're all counting on you.
 私たちは誰もが何かしらの力を持っています。それぞれに違う在り方で、私たちは誰もがスパイダーマンなのです。そして、皆があなたのことを頼りにしているのです。
 
 この台詞は、追悼のために広場に集まった大勢のニューヨーカーたちを背景にして流れるが、マイルズを含む多くの人はスパイダーマンのマスクを被っている。紙のお面らしきものをつけた人や、しっかりした全頭マスクの人もいた。個々でそれぞれ違った姿のスパイダーマンが集合したように見えて、MJの台詞を体現したような画面になっているということだ。私たちにはそれぞれできること(大いなる力)があり、それを良いことのために使う責任があり、そう言った意味で私たちは誰もがスパイダーマンであるという、そんな場面だ。
 そうして葛藤を乗り越えて新しいスパイダーマンとなったマイルズは、最後に"Anyone can wear the mask. You could wear the mask(誰にでもマスクが被れる。君にだって被れる)"と私たち観客に向かって言うのである。
 
 私はこの「誰にでもマスクが被れる」という概念をかなり気に入っている。マルチバースでは本当に自分がマスクを被ったヒーローかもしれないという示唆性、「誰にでも」という多様性と、「マスク」というコスチューム(見た目)の重要性、この三点だ。そして、『スパイダーバース』の影響なのか、MCUが本格的にマルチバースを展開させたからなのか、ここ数年で"Anyone can wear the mask"を感じさせるような作品が増えたように思う。以下はその話と、あとそれに付随するような四方山話を書いていく。
 この話題はマルチバースと同じく拡大し続けるものだと思うので、ひょっとしたらあまりまとまらないかもしれない、というか、『アクロス・ザ・スパイダーバース』を観ていない状態で書いているので、来週ぐらいにはこの辺の考えが大変革を遂げているかもしれないのだが、まあそれはそれで。
 

『スパイダーバース』以前(ざっくり)、または示唆性

 私が『スパイダーバース』を観た時に抱いたのは、「(ヒーロー映画における)ヒーローの唯一性はここ十年ほどですっかり失われたのだ」という、感慨のような畏怖のような、ちょっとした郷愁のような、そういう漠然とした感覚だった。
 MCUのフェーズ1(『アイアンマン3』まで)なんかは、まさにこの「唯一性の崩壊」の面白さが牽引力になっているのではと思う。それぞれの映画のポストクレジットに、「他にもヒーローがいる」という示唆しかされていないのに、それだけで最初の『アベンジャーズ』(2012)までかなり引っ張って行けている。
 もちろん、MCUという計画自体が初めは探り探りだったので、あまり大きく出られないということはあったかもしれない。ただ、『アベンジャーズ』の公開を待っていた頃私は高校生だったが、このポストクレジットや『アイアンマン2』にニック・フューリーが出てくるのにものすごく興奮していた記憶がある。コールソンがハンマー見つけるやつとか、めっちゃ良かったよね……。
 これを5〜6年積み重ねた後でトム・ホランドスパイダーマンが登場したというのは、(実際には多分権利関係の問題が一番にあったんだろうが)すごく象徴的だ。今までスパイダーマンは唯一無二の孤高のヒーローだったのだから。
 逆に言えば、トム・ホランドスパイダーマンは最終的に『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)で「孤高のヒーロー」に戻って行き、MCU全体の流れとは完全に逆行したような形で終わったのがかなり大きな特徴だと思う。
 
 ここは完全に蛇足なので興味がなければ読み飛ばして欲しいが、ジョン・ワッツが監督したトム・ホランドスパイダーマンは、時折MCUの向かう先とは真逆の方向へ全力疾走しているような奇妙さがあり、私はその辺のいわゆる「本筋」とズレているところ、妙に細かいようなところがかなり気に入っている。
 たとえば『ファー・フロム・ホーム』(2019)のヴィランであるクエンティン・ベックは、『シビル・ウォー』(2016)で登場した立体映像システム(略称は”B.A.R.F.”、つまりゲロ。トニー命名)の開発者で、トニーに邪険に扱われて会社をクビになった。ベックは自分と同じような陽の当たらない技術者を集めてきてチームを結成するが、その中に「『アイアンマン』でオバディアから怒鳴られていた研究者」が含まれている。B.A.R.F. 開発者はともかくとして、こんな重箱の隅を突くような設定はルッソ兄弟のマーベル映画では観ることはできないだろうと思ってしまう。
 ちなみに、ジョン・ワッツスパイダーマン以前の監督作に『クラウン』というホラー映画があるのだが、これは「息子の誕生会に屋根裏にあったピエロの衣装を着たらそれが呪われていて、脱げなくなってしまった父親の話」で、「スーツが肌となる」という意味では確かにかなりスパイダーマン的な物語と言える。いやわかるんだけど、これ観て「この人に次のスパイダーマン撮ってもらおうぜ」とは普通ならないのでは? わかるんだけど。
 しかし、ヒーローになることの重みや恐怖をカルトホラー的なセンスで表現するというのはサム・ライミの『スパイダーマン』(2002)でもそうだったので、案外親和性のあるものなのかもしれない。
 蛇足終わり。
 
 
 話が逸れてしまった。
 『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)までのMCUの面白さは、二十数本もの映画に一貫性のようなものを持たせて、最終的に前後編にまとめたところにあると思う。『エンドゲーム』はこういったユニバース構想、平たく言うと「いろんな人が同じ世界にいる」というアイデアの一つの集大成だ。
 
 一方『スパイダーバース』や『ノー・ウェイ・ホーム』のようなマルチバースの概念が導入された映画では、「自己という存在は単一ではない」という広がり方をする。MCUの世界は「アース199999」という番号が付いているらしいが、つまり、MCU映画を観てブログを書いているこの私が、アース199999ではひょっとしたらピーター・パーカーの同級生とかかもしれないのである。さらに別のアースでは、私がスパイダーマンをやっている可能性もなくはない、みたいなことだ。
 不思議なことに、マルチバースの概念がある方が映画と観客の距離が近いような気がする。『スパイダーバース』でマイルズが言う"Anyone can wear the mask. You could wear the mask"には、冒頭で言ったような「誰もが力を持っていて、誰もがスパイダーマンである」という意味のほかに、「君もこれからマスクを被って、君の世界のヒーローになるかもしれない」というマルチバースの可能性を示唆するような意味もあるのだ。
 『エンドゲーム』の公開日は『スパイダーバース』とわずか四ヶ月違いで、日本だとほとんど同時だった。スーパーヒーローの唯一性、単一性は気づいたらMCUの十年ですっかり崩れ去った。マスクを被る人が大勢いる映画が当たり前になったと、『スパイダーバース』を観た時に気づいたというか、思い出したというか、思い知らされたのである。
 

Anyone :『エターナルズ』の多様性ある「ふつう」

 私が"Anyone can wear the mask"というフレーズを次に思い出したのは、2021年の秋、『シャン・チー』と『エターナルズ』を観た時である。
 『シャン・チー』の方は、正直私は背景に登場する様々な神獣たちの方にすっかり目を奪われていたのだが、アジア系のヒーローというのはそれだけで私にとって"You could wear the mask"案件である。(西洋のドラゴンではなく)東洋の龍があれだけのCGで画面に大写しになるということにも、ものすごい感慨を覚えた。神獣の扱いや描写に全く言いたいことがないわけでもないのだが、あの龍を見てアジアという大きな括りの中に自分がいることをすごくいい感じに感じ取れたのは確かである。龍、すげ〜かっこよかったな………ただ降りる時に目の上踏まない方がいいとは思うんだよ……。あとお礼とか言っても良かったと思う。
 『エターナルズ』の方は、もっとなんというか、個人的な意味でも割と好きな映画の一つだ。
 『エターナルズ』には10人もヒーローが出てくるが、皆それぞれ違う属性を持っている。これだけでもかなりすごいことだと思うが、私はそれ以上に、キャラクターたちが「普通」の人として描かれているというところを気に入っている。
 彼らはおそらくほとんど不死で、宇宙エネルギーを使ってかなり普通じゃないことができるのは確かなのだが、その一方で長く生きている(そうせざるを得ない)ものすごく普通の人たちでもある。それがかなりしっかりと描かれる。この普通さの描き方がとても良いのだ。
 写真の加工にハマったり、普通にご飯を作って食べたり、映画を作って楽しんだり、本を読み耽ったりする。そしてものすごく付き合いの長い家族がいて、離れることはできても縁を切るのはなかなか難しい事情があるので、何千年ぶりかに再会したりするが、会ったら会ったで軽口を叩いて、互いのいいところや嫌なところが見えたりする。地球を救おうと頑張る以外でエターナルたちがやっているのは主にこういうことである。
 彼らは普通ではない能力を持った、でも普通の人で、この辺までは今までのヒーロー映画で多く描かれてきたものだ。超人的な能力を持った普通の高校生のスパイダーマンが魅力的なのと同じことだ。
 彼らの中には、男性同士で結婚して子供がいる人もいれば、男性と付き合っている女性もいる。男女で同じ家にただ一緒に住んでいる人たちもいれば、誰とも一緒にいない人もいる。聴覚障害を持った人もいて、みんなとは手話で話す。彼らは家族で、写真の加工にハマったり、ご飯を食べたり、本を読み耽ったりしている。
 そこに理由はない。『エターナルズ』で描かれる「普通さ」の多くは、今までのヒーロー映画がそれを表象するために切り捨ててきたものだ。それらを拾い集めて、最初からそこにあるものとして描いている。ギルガメッシュが「なぜ」韓国系アメリカ人で、マッカリが「なぜ」聴覚障害を持っているのか、それは彼らが「そう」だからで、理由や意味のようなものは特にない。でもこれはすごく意味のあることなのだ。なぜなら彼らは「そう」だから。それが普通にその辺にいるということだと思う。
 すでにMCUを十年追ってきてすごく今更感があるが、私は多分『エターナルズ』を観て初めて「ヒーロー……いっぱい出てきて良かったな……」と思ったのだった。「世の中にいるヒーローは一人ではない」という唯一性の崩壊が、すごく現実味を帯びてきたように感じたのだ。
 

『アメスパ2』:マスクを被ると強くなる

 ところで、私は『スパイダーバース』の対極にあるのは主に『アメイジングスパイダーマン2』(2014)だと思っているのだが、この映画も最後には「誰にでもマスクが被れる」的なところに帰結する。
 『アメイジングスパイダーマン2』は、ガーフィールドのピーターがスパイダーマンになった必然性を父親の遺伝子に求めるという強烈な血統の物語だ(ピーターを噛んだ蜘蛛は父リチャードが開発したもので、同じ遺伝子を持つものでなければ噛まれた人間は死んでしまう)。これが遺伝性の病気を受け継いでしまったハリーと交差するというわけだが、MCU版や『スパイダーバース』を経た今観ると、ピーターが驚くほど孤軍奮闘を強いられているようでなかなかしんどいものがある(とはいえ、その孤独さがスパイダーマンの魅力の一つなのは確かだ)。あの世界において、スパイダーマンはほかに類するもののない単一の存在なのだ。
 ただ、本作の最後の場面では、ピーターがいじめっ子から助けた小さな男の子がスーツとマスク姿でライノに立ち向かい、そこに復活したスパイダーマンが現れるという流れがある。『アメイジングスパイダーマン』二作の基本は「マスクを被ると強くなる」というコンセプトだ。前述した血統の物語によってこの辺がちょっと霞んでいる感じがなくもないのだが、後述するコスチュームの重要さというところでは、このライノの場面はけっこう大事だと思う。
 

ホークアイ』:コスチュームを着るということ

 ディズニー+で配信されていた『マーベル616』というドキュメンタリーシリーズがあった。悲しいことについこの前(2023年5月末)配信終了してしまったようで、さっき検索したら見つからなかった……そ、そんな……
 同シリーズはMCUだけではない、マーベル作品が広く与えた社会文化的影響にフォーカスしたもので、私は残念ながら全部見ていないのだが面白いシリーズだった。え〜〜〜東映スパイダーマンの回とか見たかったんだが………!?
 その中の一つに、NYコミコンに行くコスプレイヤーたちを特集した回があり、私自身もコスプレしてコミコンに行くタイプのオタクなのですごく面白く視聴した。皆仕事や生活があるがその合間を縫って衣装を作り、メイクの練習をする様子が紹介され、そのコスチュームを着ることによって自分がどう変化するか、コスプレするキャラクターと自分がどう繋がっているかをそれぞれが語る。
 私がイベントでコスプレする頻度はせいぜい年に数回だが、例えば何かのコスプレをしていて小さな子供にキャラクターの名前で呼ばれたりした時、そういう時ほど自分が着ているコスチュームに責任を感じることはない。
 
 私が『ホークアイ』を見てまず思ったのは上記したドキュメンタリーのことと、「マーベルスタジオ、私たち(コスプレするファン)のこと知ってるやんけ……」だった。このドラマは「コスチュームを着ること、コスチュームを着て強くなること」についての話だと思う。
 クリント・バートンは富豪でなければ神でもない、弓がものすごく上手い普通のおじさんだ。彼の本職は隠密活動で、仕事の成り行きでヒーロー視されるようになった人である。実際クリントのコスチュームはスーパーヒーローというより一介のエージェントで、子供は街中のコスプレイヤーの方に寄っていく。ドラマの序盤でケイトは「地味だから売り込みずらい」と指摘するが、クリントはそういうことにかなり消極的だ。
 彼が派手なスーツを着ない理由は、台詞ではっきりそうとは言われないがドラマを見進めるうちに段々わかってくる。コスチュームとヒーローという点では、自分も一歩間違ったらL.A.R.P.(甲冑や剣でコスプレしてロールプレイングで遊ぶ集会)にいる「ヒーローのコスプレをした一般人」になるからだ。もしくは、ブロードウェイで歌って踊る俳優と何ら変わらなくなるから。冒頭の『ロジャース:ザ・ミュージカル』は居心地悪く、馬鹿馬鹿しくて恥ずかしいもののように見えたが、多分クリントがそう思っているせいだ。
 ヒーローが派手なコスチュームを着ることは、ある種の責任が伴う。そもそもこのドラマ自体、クリントの過去=ローニンのスーツが負った責任についての話でもある。『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』は、この流れで行くとコスチュームを着てシンボルになることの大変さの話だった。
 前述したL.A.R.P.はメンバーのほとんどが警官や消防士で構成された集団で、クリントとケイトに協力して情報を渡したり市民を避難させたりする。見返りは二人の新しいコスチュームの素材を貰って、それを作ることだ。クライマックスでニューヨークのパーティ会場は大混乱に陥り、L.A.R.P.の仲間たちはうまく市民を誘導できない。そこで、彼らは集会で着ていた手作りのコスチュームに着替えてもう一度表に出ていくのである。
 
 『アメイジングスパイダーマン2』のようにものすごく感動的というわけではないが、でもこれも同じように、立派な「マスクを被ると強くなる」場面だ。「ヒーローのようなコスチュームを着てヒーローのように振る舞う」のは、実は舞台に立つ俳優もコスプレが趣味の一般人も、本物のヒーローも同じである。六話の最後でクリントは冗談めかしてコスプレイヤーお手製のスーツを褒めてくれるが、そこでコスチュームをめぐる文脈がうまく重なっていた。
 
 ちなみに、この文脈の結びは、ミッドクレジットにある『ロジャース〜』のSave the Cityのフルバージョンで、ここで時折挿入されるオケの指揮者が感極まった表情をしているところにある。つまり、彼らは真剣なのだ。舞台上の俳優たちも、L.A.R.P.の仲間たちも、皆真剣にコスチュームを着ているのだ。『ホークアイ』には地球の危機も宇宙人も登場しないが、ヒーローの唯一性が完全に崩壊して、マルチバースが始まる"Anyone can wear the mask"の時代を斜め下の視点から切り取ったうまい語り口だったと思う。私もあの世界線にいたら絶対ロジャミュ観て泣いてると思うんだよな……。
 

おわりに

 さて、「誰にでもマスクが被れる」という台詞を起点に8000字も書いてしまった。マーベル関係のここ数年の大量のツイートをまとめられてすごくスッキリした。
 『スパイダーバース』でその台詞が出てきたときは「マルチバースの可能性すごいな……」という感じだったのだが、表象されるものが増えるにつれてそれがどんどん自分に近づいてきているような気がして、「ヒーローがいっぱいいるっていいな……すごいな……」に変わった遠いう話である。
 『ミズ・マーベル』は、まさに前述したような「コスプレが趣味の一般人」にスーパーパワーが宿るという話で、そういう意味では『ホークアイ』とけっこう直結していると言えなくもない。アベンジャーズのファンでティーンエージャーのヒーローというだけでもそうだが、女の子が主役の『スパイダーマン』的物語のようで、これはこれでものすごい数の人への"You could wear the mask"になっていると思う。というか、私は正直カマラちゃんに『アベンジャーズ』(2012)の公開を待っていた頃の高校生の自分の影を見た。結構はっきり見た。『マーベルズ』ではついにキャロルと対面するようなので、とても楽しみである。
 
 

トム・クルーズ映画からみる「壮年のマーヴェリック」までのイメージ

 

はじめに

 『トップガン:マーヴェリック』(2022、コシンスキー、以下TGM)公開からそろそろ一年が経つ。去年の五月末というと、私が精神的不調から会社を辞めて、実家への引っ越しがちょうど完了した頃だ。手続きや片付けでかなり疲れていて、また「これからいったいどうすればいいのだろう」と漠然とした気持ちになっていた時期でもある。そんな中で、東京よりも格段に少ない電車とバスに乗って見に行ったのがTGMだった。
 映画を観た人であれば重々承知しているだろうが、TGMはトム・クルーズのスター映画であり、彼のフィルモグラフィを総括したような作品である。この記事では、去年TGMを観てからトム・クルーズの映画をあれこれ観返して考えたりツイートしたことを元に、ちょっとしたトム・クルーズ俳優論のようなものを書いていこうと思う。抜けているものや未見のものもあると思うが、特に『ミッション・インポッシブル』シリーズを中心として、若い頃の出演作からTGMの壮年のマーヴェリックまでの変遷を追っていく。
 
目次
 

80年代〜90年代のイメージ

 TGMを劇場で観るにあたって無印をかなり久しぶりに観直してみたが、感想としては可もなく不可もなく、80年代のハリウッドのいいところと横暴なところが全部盛りになっているという意味ではすごい映画だなと思った。あの20代のマーヴェリックのキャラクターは今やったらたぶん観客には受け入れられないだろうな、とも(TGMではマーヴェリックのこの気質が鍵の一つになる)。
 ただトニー・スコットの戦闘機の撮り方やアクションの激しさと勢いは、86年当時に初めてこれを観たら人気が出るんだろうなと言うのも想像がついた。多分、私たちが最近の『ミッション・インポッシブル』の狂気的なスタントを見て呆気に取られるのと同じような現象が起きていたんじゃないかと思う。そういう映画は今も昔もあって、トム・クルーズはその騎手となってきた。
 私はトム・クルーズというとイーサン・ハントのイメージがあまりにも強すぎて、正直マーヴェリックのイメージとあまり結びつかなかった(もちろん、現役で観ていた世代であれば話は違うのだろう)。私はイーサンのことがけっこう好きだ。イーサン・ハントはやることなすことデカいが中身はわりと控えめな男で、危険なスタントはほぼ必ず「気が進まないけどやらざるを得ない」状況に追い込まれて決行する。マーヴェリックのような「野心ある傲慢な若者」というイメージは、おそらくフィルモグラフィのうちで最初にヒットした『卒業白書』(1983)の直系ではないかと思う。『トップガン』の後の『カクテル』(1988)も同じようなキャラクターで、ビジネスで成功したいと野心を燃やす若者が失敗したり成功したりする話だ。
 この手のキャラクターが段々と落ち着いてくるような印象があるのは『レインマン』(1988)あたりからで、この辺から傲慢さが鳴りを顰める代わりに「切れ者」という印象が強くなるように思う。同時に作品選びもスリラーや人間ドラマ、戦争映画が増えて、フィルモグラフィを眺めていて思ったが、90年代〜00年代初めあたりのトム・クルーズの映画はどれもかなり見応えがあって面白い。私が特に好きなのは『ザ・エージェント』(1993)と『マイノリティ・リポート』(2001)で、ちょっと執拗にも見えるほど細かい撮り方をしているのが特徴である。
 

M:IとM:I-2

 一番最初の『ミッション・インポッシブル』は1996年である。96年というと、ピアース・ブロスナンが軟派でクラシカルなジェームズ・ボンドだった頃だ。クリストファー・マッカリーが主軸になっている今のM:Iのスタイルとは全く違っていて、全編に渡って張り詰めた緊張感が今観るとかなりユニークだ。メインプロットも内部の裏切りと組織への不信と内省的なところが多く、ちょっとだけ『007/スカイフォール』(2013)を思い出した。
 トムが映画製作を始めたのはこの作品からだが、スリラーやサスペンス映画が多い監督ブライアン・デ・パルマ(この次は香港ノワール映画で有名なジョン・ウー)という人選からして、シリーズとしての方向性が多分今とは違ったのだろうなというのを感じた。
 私は007シリーズが好きなのでどうしても比較してしまうのだが、M:Iは現代的なガジェットやチームプレーがある点でボンド映画とは差別化が測られていたんだろうというのが推測できた。また今作から登場しているルーサーはテック関係を引き受けるいわゆる「椅子の男」(実際に動くスパイ/ヒーローに対してモニターの前でナビをするキャラクター。『スパイダーマン:ホームカミング』でピーターの親友ネッドが的確に例えた台詞)だが、彼が全身ブランドものの服を着たものすごくおしゃれで仕事のデキる人として登場することはもっと記憶されてもいいのではないかと思う。この後登場するベンジーのように、「椅子の男」はおおよそいつもちょっと頼りないオタクっぽいキャラクターだと、今では相場が決まっているような節があるからだ。そういった通例ができる前の「椅子の男」なのかもしれない。
 
 『ミッション・インポッシブル2』(2000)に対する私の印象はおおよそ「トム・クルーズジョン・ウーの個性がぶつかり合ってジョン・ウーが勝ってる」みたいな感じなのだが、この映画ですごく面白いと思うのは、「トム・クルーズの顔をしたマスク」が登場するところだ。
 TGMのマーヴェリックは、周囲から繰り返し「その目つきやめろ」と言われている。初めにこのセリフを言うペニーとの場面から察するに、「その目つき」とは80年代の「傲慢な若者」の傲慢さを全部殴り飛ばせるようなトム・クルーズの魅力、エネルギーのようなものを言っているのだと思う。主に女性とのロマンスの場面でこの「目つき」は発揮されているのだろうが、ホンドーもそう言っているので多分対女性キャラクターだけではなく、いろんな映画でいろんな人がトム・クルーズの「魅力ある視線」に屈してきて、それは必ずしも健全な関係ではなかったという反省の意味が込められているのだろう。
 『ミッション・インポッシブル2』は、視線というわけではないが少なくとも「トム・クルーズというスターの顔」には自覚的なところがある。スターにとって顔は重要だ。私たちはその顔をヒーローや悪役だと認識し、その顔に対して各々のイメージや物語を付与して映画を観る。そんなトム・クルーズの顔がグニャッと歪んで皮となり引き剥がされるショットは、脚本の捻り以上の意味があるように見える。
 

M:I-3、もしくはベンジー以後

 『M:I-3』(2006)からサイモン・ペッグが参加しているのは外せないポイントである。私はベンジーのことが大好きだ。シリーズを「ベンジー以前」「ベンジー以後」と分けられるんじゃないかというぐらい、重要なキャラクターだと思う。コンピューターが専門の「椅子の男」でルーサーと似たような立ち位置だが、半コメディリリーフのような扱いで登場して、次作からはシリーズのマスコットキャラのような存在になっている。J.J.エイブラムスが『ショーン・オブ・ザ・デッド』のファンだったことが起用のきっかけだったらしいが、三作目はサイモン・ペッグ以外にもマギーQの存在や、イーサンを数分死なせてまでもジュリアに銃を取らせたりと、トム・クルーズ以外のところに手が行き届いている印象を持った。
 
 最近ではもうすっかりお馴染みになった感があるが、トム・クルーズが壮絶なスタントをやるのがもはや「面白い(funny)」ことのように受け入れられ始めたのは『ミッション・インポッシブル:ゴースト・プロトコル』(2011)ぐらいからではないかと思う。ブルジュ・ハリファのアクションが予告編か何かで出た時に、高校生ながら「何してんの……?」と思ったことをよく覚えている。
 そして、この面白さにサイモン・ペッグはなくてはならない存在なのだ。イーサンが不可能な何かをやらざるを得ない時は大抵ベンジーが一枚噛んでおり、要所要所の場面でサイモン・ペッグのコメディ演技がトム・クルーズを食っているような現象が起きている。ブルジュ・ハリファの壁を外から登らなければならなくなった時、手のひらが物に吸着するようになっているグローブのバッテリーが「青ならくっつく、赤なら死(Blue is glue, red is dead)」と残酷にもイーサンに告げるのはベンジーだ。私が高校生の時に思った「何してんの……?」という空気はスクリーンの中にも流れていて、ここはスタントも凄いが何より面白い場面になっている。
 こういった、ある種の受け身のキャラクターというか、(常に一歩先を行って色々とコントロールしている切れ物ではなく)戸惑いながらも最終的にはトム・クルーズ力でなんとかなる程度の「抜け感」のようなものが、実はこの人にすごく合っていたのではないかと思う。TGMの壮年のマーヴェリックはそういうキャラクターだったと思うのだ。たった一人でかっこよくスクリーンを占領するよりも、エネルギーのぶつけ合いができるようなキャラクターを周りに置いている映画の方が、私は断然うまくいっているような気がしている。
 そう思って「戸惑うトム・クルーズ」を意識しながら観てみたのだが、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(1994)では8歳くらいのキルスティン・ダンスト相手にこの現象が起きていた。『トップガン』ではヴァル・キルマーアンソニー・エドワーズ相手に、TGMではマイルズ・テラーとの雪山の場面なんかが、多分そうだったのではないか。
 
 2012年の『アウトロー』から頻繁にコラボレーションしているクリストファー・マッカリーは、トム・クルーズのこの種の魅力をたぶんよくわかっている人なのだろうというのは想像に難くない。『ミッション・インポッシブル:ローグ・ネイション』(2016)では、イーサンはベンジーの勢いに押されて危うく溺れかけたり、蘇生した後に走ろうとして転んだり、なかなか抜けているところがある。『ミッション・インポッシブル:フォールアウト』(2018)ではベンジーのナビにかなり振り回されていた。
 この文脈だと蛇足になるが、私がクリストファー・マッカリーについて思うのは、画面がとにかくシンプルで単純、観客がなんとなく観ていても理解できてついていける画力の強さだ。『ローグ・ネイション』の冒頭の滑走路の場面の強烈なシンプルさや、事情を説明する台詞が恐ろしく単純なのとそれを捕捉する映像の切り貼りの仕方が抜群にうまいと思う。TGMでは製作として参加しているが、ミッションの説明(デス・スター破壊任務とほぼ一緒である)がされるパートから繰り返し挿入される基地の立体映像は、観客の理解を大いに助けているだろう。
 
 TGMのマーヴェリックも、恋人の家の窓から帰るところをその娘に見られていたり、若者に包囲されて酒場から追い出されたりとけっこう情けない。でもそれは一番のキャラクターの魅力にもなっているのだ。
 

壮年のトム・クルーズ

 TGMが今までのトム・クルーズの映画と決定的に違うところは、「トム・クルーズも歳を取った」ということにはっきりと言及しているところかと思う。私のイメージであってひょっとしたらどこかで言及されているのかもしれないが、M:Iシリーズのもっとも狂気的な部分は、あの壮絶なスタントをトム・クルーズ本人が「あの歳で」やっていることとほぼ同じラインに、作中でイーサン・ハントが歳を取ったことに誰も言及していないことであると思うのだ。イーサンがもうたぶん還暦も近いということに、まるで誰も気づいていないかのよう。M:Iシリーズに限らず、フィルモグラフィの中で年齢(加齢)を感じさせる役自体ほとんど見た覚えがない。
 それを、今回TGMでそれはもうしっかりと言及し、というかそれを主軸として映画を一本作ったと言っても過言ではないほどにやったのだから、少なくともM:Iではもう同じことはやらなさそうだなと思う。再来月に公開が控えている『ミッション・インポッシブル:デッドレコニングPart1』は、その「加齢」というスター映画としてのストッパーのようなものが外れた状態で、最後まであの振り切った勢いのまま行くのではないかという気がするのだ。そういう意味もあって楽しみである。
 

おわりに

 さて、去年の大量のツイートを元にトム・クルーズの話が好きなだけできて嬉しい限りだ。
 60代の母は数十年前に父と86年の『トップガン』を観に行ったらしい。というか、『トップガン』の続編が出るとニュースがあった時に母親と話したのだが、トム・クルーズはうちの父親とほぼ同い年だ。生年を調べてみたら松重豊ともほぼ同い年だった。私が映画館に行ったのは去年の6月の初めで、平日の昼間、貸切状態を予想していたけど席はかなり埋まっていて、それもみんな私の親ぐらいの歳であろう観客ばかりだった。さもありなんである。今でも覚えているが、F-14の席もしっかり埋まっていた。座っていたのも父親ぐらいの歳の人だったなあ。
 

再生ボタンを押す力を得る:『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーvol3』

 

 誰にでも、悲しい曲を聴きたくなる時があるだろう。大事な局面で自分を鼓舞するために、壮大な音楽や自分にとって意味のある音楽を聴くこともあると思う。それらはひょっとしたら外側からは間抜けに見えるかもしれないが、自分は大真面目で、感情を抑えたり爆発させたりするのに重要な、大きな意味のある行為だ。
 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーvol3』はそういう映画だ。
 
 GotGを観てきて今までここにずっと気づかなかった自分もどうかと思うのだが、本シリーズで流れる音楽は、ほとんどの場合でいつも誰かの手によって流されている。
 映画の音楽には2種類ある。物語内の音楽と物語外の音楽だ。通常私たちが映画を観ている時に一緒に聞いている音楽は、主に映画の演出として流れる物語外のものである。例えば、『マイティ・ソー/バトルロイヤル』(2017)の冒頭で流れるレッド・ツェッペリンの"Immigrant Song"は観客の私たちだけに聞こえるものであって、スクリーンの中にいるキャラクターたちも聞いているわけではない。
 一方、物語内の音楽とは、スクリーンの中のキャラクターたちにも聞こえている音楽のことだ。『アイアンマン3』(2013)の冒頭では、トニー・スタークがスーツの性能テストをする場面で、J.A.R.V.I.S.に指示してジングル・ベルのレコードを流す。こちらはスクリーンの内外両方に聞こえている音楽であり、観客はキャラクターたちと音楽を共有できるというわけだ。
 
 この「物語内の音楽」の演出は、意外と少ない、というか、はっきりとそう判別をつけるのが難しい場合もある。MCUでは、似たような例で『キャプテン・アメリカシビルウォー』(2016)のスパイダーマンの初登場シーンや『アイアンマン2』(2009)でローディとトニーが大喧嘩する場面があるが、ここで流れる"Left Hand Free"や"Another one bites the dust"はかなりシームレスな扱いになっている。前者はピーターのイヤホンから流れている曲かと思いきや、フェードアウトしてそのまま台詞のやり取りに移り、後者は途中から別の曲に変わっているからだ。
 
 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズは、この点ではかなり特異だ。つまり、「劇中流れる音楽がどこからやってくるものなのか」がかなり意識されているのだ。さらに付け足すと、それらは皆キャラクターの手によって流されたものである。
 思えば最初の映画はそうして始まる。惑星モラグに立ったピーター・クイル(クリス・プラット)は最初のショットでは得体の知れないヘルメットを被った男と演出されるが、親しみやすい顔が出てきたその次にはヘッドホンをつけてウォークマンの再生ボタンを押し、"Come and Get You Love"とともにタイトルが出るのだ。
 ここにおいては、音楽とはキャラクター自身の意思で彼らの手によって再生されるものだ。『vol3』は、この「再生ボタンを押す力を持つ」ことがいかに重要なものなのかがことさらに意識されている。
 その重要さを背負うのは、もちろん今作で物語の主軸になるロケットだ。今まで主にピーターにあった「選曲権」「再生権」のようなものが、ロケットに移っていく。それは今作の主人公がロケットで、ライラが言ったように「気づいていないかもしれないけど、これはずっとあなたの物語」であったからに他ならない。
 今回の冒頭で流れるのはレディオヘッドの"Creep"だ。はみ出しものの気持ちを歌った痛切な歌詞がまさにロケットの苦しみを表したかのようだ。この曲は彼がピーターから渡された音楽プレーヤーから流れているものであり、明らかにロケットの手によって流されたものである。キャラクター「が」流した曲というところが重要なのだ。彼の感情に私たち観客はCreepを通してアクセスし、強い繋がりを得ることができる。
 
 自分の意思で、自分をカッコよく、悲しく、楽しく、感動するために、演出するために音楽を流す。彼らは自分で再生ボタンを押す力を得ることで、自分の物語の語り手となることができる。自分の人生の主人公になることができるのだ。
 
 『アベンジャーズ:エンドゲーム』(2019)では、この「自分で音楽を聞いて自分で盛り上がっている」人をからかうような場面がある。インフィニティ・ストーン奪還のために2014年にタイムトラベルしたネビュラとローディは、"Come and Get You Love"を聴いて踊っているピーターを外側から見て「アホだ」と言う。
 確かにそれはそうで、外側から見たらヘッドホンをつけて音楽に乗っている人というのは結構アホに見える。しかし、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』とは、「アホに見えてもいいから音楽を聴いて自分を鼓舞し、自分の物語を語り、自分を愛し愛される人がいる銀河を救う」物語なのだ。特に本作は、「はみ出しものの自分を愛し自分のために生きる」祝福の物語なのだ。最初からそうだったのだ。
 

ジェームズ・ボンドの鮮やかな上昇:「下降」と「上昇」から見るクレイグ・ボンド、または『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(架空)考察

 
 
 『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』を観ました。もう三回観ました。初日とその翌日に一回づつ、あとさっきも観てきましたが、何から話し始めればいいのかまだわかりません。
 何を言っているのかわからないかもしれませんが、去年頒布した映画考察本にNTTDの架空評論を書いて載せていました。延期されている間に過去シリーズに全て目を通して研究書の一冊でも読めば、なんかもう観てなくても感想が書けるんじゃないかなと思ったわけです(詳しい経緯は下に)。今回は、その答え合わせも兼ねてNTTDの個人的な考察を書きます。
 以下は2020年9月に書いた当時の原稿ほとんどそのままの文章を、NTTD観賞後に追記したものです。答え合わせを兼ねているので、追記の部分はこんな風にイタリック体にして、そうとわかる形で書いていこうと思います。ダニエル・クレイグのボンド映画を一本ずつ振り返り、どさくさに紛れて観ていないNTTDを振り返るという構成です。本当に、皮肉だけど延期される時間でこんなに自分にとって存在が大きくなるとは思わなかった。
 いろいろ書き足したら最終的に1万5千字ほどになってしまったので、ジャンプできる目次をつけました。お好きなところだけ読んでください。
 
目次

0.ことの経緯

1.『カジノ・ロワイヤル』(2006)

2.『慰めの報酬』(2008)

3.『スカイフォール』(2012)

4.『スペクター』(2015)

5.『ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2021)※追記あり

 
 
 
 

0.ことの経緯

 
 ここで、改めてこの記事を書くことになった経緯を話しておこうと思う。
 それまでにも製作の遅れで公開時期はどんどん遅れていたらしいのだけど、なんだかんだあって2020年4月に公開が予定されていた『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2020、フクナガ、以下NTTD)の公開延期が発表されたのは、2020年の3月上旬のことだった。前年の12月に初めて『スカイフォール』を観たばかりだった私は至極複雑な気持ちになった。そりゃあ『NTTD』は早く観たいけど、4月までに過去の20数本を観返す時間はどう考えてもないので深掘りはとっくに諦めていたところだったからだ。でも11月だって。あと7ヶ月もあるんなら20数本はおろか、ダニクレの映画だって全部観られるだろう。過去の評論とか読むの面白そうだし、その辺調べたら過去のボンド映画で考察とか書いて、新作公開されたら比較して……そこまで調べて書けたらもう観たようなもん(?)なんじゃない?(??) 最早公開前に(?)考察が書けるのでは?(???)
    追記:※このあとさらに2回延期されることをまだ知らない状態で書いています。
 というわけで、結局過去の評論を当たる時間まではなかったが、一応過去の作品を鑑賞し、『スカイフォール』公開当時の論文をちょっとだけ読み、恐らく日本語で読める唯一の研究書であろうジェームズ・チャップマンの『ジェームズ・ボンドへの招待』にざっと目を通すぐらいはできた。これも前章に書いたことだが、例え観たことのない映画の記事を書くのが目的とはいえ、そのために観た映画やそれについて考えたことは全く「架空」ではないということをひしひしと感じた。全然無駄じゃない。
   追記:結構色々手を尽くして調べたつもりだったのだけど、この一冊しか手に入らなかった。日本語で読めるボンド映画の研究書、あったら私に教えてください。
 ここでは、ダニエル・クレイグのボンドと「下降と上昇」についての話をしようと思う。今のところこの文章の仮題には「評論」という言葉がついているのだが、ひょっとしたら後で「手紙」とか「願望」とかに変えてしまうかもしれない。私は今から、『カジノ・ロワイヤル』(2006、キャンベル)から『NTTD』までを振り返るにあたり、「下に降りること/上に昇ること」という非常に曖昧なものでそれぞれが繋がっているかのように語ろうとしている。同一の監督が撮ったわけでもない5本の商業映画(うち一本は未見)を語る軸としてはあまりにも弱すぎることは重々承知である。それでも私はどうしても、『スカイフォール』まで下降し続けたクレイグのボンドが、同作の後半から『NTTD』にかけて「上昇」していく、「浮上」していくというイメージを捨てることができないのだ。そしてここで書こうとしているのは「架空」評論だ。つまり上のタイトル部分に「架空」の字が割と大きめに入ることで、読み手との共犯関係が生まれるはずなのだ。「下降していたジェームズ・ボンドに上昇してほしい」という私の願望が混入した、ある程度夢みがちな文章を書くなら、今しかない。
 以下は、ダニエル・クレイグのボンド映画を駆け足で一本ずつ振り返り(現実)、どさくさに紛れてNTTDも振り返る(幻覚)に入るという構成になっている。いいですね、皆さん、特に最後のセクション、共犯関係ですからね。言いましたよ。
 
 

カジノ・ロワイヤル』(2006)

 
 The Bitch is Dead
(裏切り女は死んだ)
 
 
 
 『カジノ・ロワイヤル』は、映画シリーズではこれまで登場することがなかったボンドのダブルオー昇格の場面から始まる。ダブルオーの条件である「2人目の殺人」の様子が、1人目を殺すフラッシュバックとともに描かれる。個人的に考える『カジノ・ロワイヤル』の面白さは、冒頭で提示されるフィルム・ノワールのイメージを最後まで崩さずにボンド映画の文脈に当てはめたことだ。白黒でざらついた加工が施された画面に、完璧な角度で置かれた引き出しの拳銃、そしてフラッシュバックなど、1920年代にフランスで誕生し40年代にアメリカに輸入された殺人メロドラマのジャンルを想起させるショットが沢山出てくる。ヴェスパー・リンドはボンド映画の範疇で言えば「ボンドガール」であることに間違いはないが、最終的にボンドを「騙し」、「狂わせた」ファム・ファタルであることもまた確かだろう。
 ダニエル・クレイグのボンド映画は至極真面目なものばかりだ。前任のピアース・ブロスナンのボンド映画を見る限り、ブロスナンはどちらかというとロジャー・ムーアのような軟派なイメージであったことがわかる。90年代後半から始まったブロスナンのボンドは、周囲が進化する中で未だにスーツのポケットからチーフを覗かせ、ホテルで美女とシャンパンを飲む「ジェームズ・ボンド」っぷりを見せていた。クレイグ・ボンドの一作目がフィルム・ノワールというハードボイルドもののパロディから始まるというのは、ブロスナンのボンドとの差別化を狙ったものであり、クレイグのボンド映画がシリアスなものになるという一種の宣言とも考えられる。
 では、クレイグ・ボンドの「シリアスさ」とはどこからやってくるのか。突飛な秘密兵器ではなくパソコンとモニターに囲まれたQ課が象徴するように、ガジェットやアクションがより本物志向になったことはもちろん主な理由として挙げられる。ここでは、職務と個人的な感情の間での葛藤に注目してみようと思う。「私が人を殺すのは政府から命が下った時だけだ」と言うロジャー・ムーアとは対照的に(『黄金銃を持つ男』(1974、ハミルトン))、ティモシー・ダルトンの2本のボンド映画で顕著だったこの種の葛藤は、主に『カジノ・ロワイヤル』と『慰めの報酬』(2008、フォースター)に引き継がれている。ダルトンの最後の作品『消されたライセンス』(1989、グレン)では、ボンドは親友の仇を取ろうと行動したことをMに「私情を挟むな」と言われ、職務を拒否してMI6の外で行動するのだ。
 クレイグの最初の2作品でボンドが抱える葛藤の中心に位置するのはヴェスパー・リンドである。作中では、ヴェスパーの死は「下降」というモチーフによって印象づけられる(のちにボンド自身の死にも関連づけられる)。これは勿論ヴェスパーがクライマックスで鉄の檻に入ったまま水に沈んでしまう場面のことでもあるが、『カジノ・ロワイヤル』の下降の場面はここだけではない。ル・シッフルの資金を回収しに来た組織に諜報員であることがバレて、ヴェスパーの身にも危険が及ぶ場面があるが、ここでのボンドは非常階段を下りながら男二人を相手にする。階段を降りていくに従ってボンドの体にはどんどん傷が付いていき、更に「下降」に巻き込まれて怯えたヴェスパーをボンドはバスルームで抱きしめる。ここで二人がシャワーの水に打たれていることはヴェスパーが水中で死ぬことを示唆しているとも取れるが、ともかく2人はここで心の繋がりを得るのである。
 ヴェスパーと恋に落ちたボンドは一度Mにダブルオーを辞職する旨を連絡するが、彼女に裏切られ命を助けることができなかったとわかると、ル・シッフルの背後に組織がいることを上に報告するという、ダブルオーとしての「職務」を遂行する。ヴェスパーを失ったボンドにMは「If you do need more time…(もし時間が必要なら…)」と聞くが、彼は「Why should I need more time?  The jobs done. And the bitch is dead.(なぜ? 仕事は終わった。裏切り女は死んだ)」と返す。この場面で「007」という仮面を手に入れたクレイグのボンドは、ようやく三揃いのスーツを着て銃を手にし、地面に伏したミスター・ホワイトに「ボンド。ジェームズ・ボンド」と名乗ることができるのだ。
 
 

慰めの報酬』(2008)

 
I wish I could get you free. But your prison is in there.
(あなたを自由にできたらいいのに。でも地獄はここにあるのね)
 
 
 
 撮影がトラブル続きだったことや、「ボンド映画」の文脈からは大きく外れたストーリーであることは確かだが、『慰めの報酬』はもっと評価されていいのではないかと思う。本作のボンドガールとボンドの関係は通常のそれとは全く異なり、クレイグのボンド映画の中では最も「ボンド映画」らしくない作品である。
 『慰めの報酬』のテーマは一貫して「復讐」である。ボンドは『カジノ・ロワイヤル』で対峙したル・シッフルの背後にいる組織を探り、最終的にボリビア軍事政権のトップであったメドラーノ将軍と、NPO法人を騙って彼を支援するミスター・グリーンに辿り着く。この間にボンドは手がかりとなる二人のターゲットを生け捕りにせず殺してしまい、Mから何度も注意を受ける。
 前作『カジノ・ロワイヤル』で「007」という仮面を手に入れたボンドだが、『慰めの報酬』はその仮面を苦労して顔につけるまでの物語だと捉えていいだろう。明らかにヴェスパーを失ったことを引きずっていて、ル・シッフルの背後にいる組織を追うことで、彼自身が復讐するべき相手が誰なのかを探しているのだ。
 本作の「下降」は、中盤でミスター・グリーンの追っ手から逃れる2人が乗った飛行機が追撃される場面であり、ここではボンドと、本作のボンドガールであるカミーユが心の繋がりを得る場所として登場する。ボンドはパラシュートを背負わせたカミーユと一緒に飛行機から飛び降り、ボリビアの洞窟の中に落ちる。パラシュートを開く位置が低すぎたせいで2人は地面に墜落するような形になってしまう。出口を探す傍らの二人の会話で、カミーユがこの一件に関わることになった理由が明かされる。
 カミーユはボンドと「復讐」という一点のみで繋がった存在であり、彼らはそれゆえに強く繋がっているが決して結ばれない。メドラーノ将軍に父親を射殺され、母と姉をレイプされ殺されたカミーユは復讐を強く望んでいる。クライマックスで二人はミスター・グリーンの施設に入り込み、ボンドはグリーンと、カミーユはメドラーノ将軍と対峙する。全編を通して、ボンドは彼女の復讐を止めたり肩代わりしたりするのではなく、同じ気持ちを抱えた者として彼女を後押しする。自分が知らないうちに復讐の機会を邪魔していたことを知って「すまなかった」と謝り、カミーユに「人を殺したことがあるか?」と銃の使い方と殺人の心得を教えるのだ。
 2人が別れる場面で、カミーユはボンドが未だ復讐を果たしていないことに対してこう呟く。「I wish I could get you free. But your prison is in there.(あなたを自由にできたらいいのに。でも地獄はここにあるのね)」ここでボンドは彼女にキスをするが、これまでのボンドとボンドガールのキスシーンとは文脈が異なることは明らかだろう。ボンドがカミーユの復讐に手を出さなかったように、彼らは互いが互いを救えないことを理解しているが故に結ばれ得ない2人なのである。
 『慰めの報酬』は、ボンドが諜報員の仮面を完全に自分のものとする場面で終わる。ボンドはヴェスパーを騙した男(彼の復讐の相手)をロシアで追い詰めるが、殺さなかった。身柄はMI6が拘束し、彼は個人的な復讐ではなくダブルオーとしての職務を全うしたことになる。その場にいたMが「Bond, I need you back(ボンド。復職して)」と言うと、彼は「I never left.(いつ離れました?)」と返す。
 『カジノ・ロワイヤル』『慰めの報酬』共に、「下降」はボンドの諜報員としての仮面と個人的な感情とが矛盾する場面で表れる。この「下降」は『スカイフォール』でやや意味を変えるもののピークに達し、同作をきっかけに『NTTD』に向かってボンドがこれらの感情に整理をつける「上昇」の描写へと変化していく。
 

スカイフォール』(2012)

 
I always hated this place!
(こんな家!)
 
 
 『スカイフォール』から、クレイグのボンドは大きく「終わり」が意識された作風になっていく。40代後半になったクレイグを見て誰もが思うこと、つまり、彼がいつまでボンドを演じ、次は誰になるのかという「世代交代」の気配が作中にも大きく反映されている。クレイグのボンドが「終わり」に向かっていく最初の作品である本作と次作の『スペクター』は、これまで大きく触れられることがなかったボンドの出生についての物語である。この「終わり」についての個人的な考察は、以前『クレイグ・ボンドを語るための思考実験』に書いたので、ここでは深く触れないことにする。
 
 『スカイフォール』は、誤射されて川に落ちたボンドの「下降」(=死)から始まる。「水中に落ちる」という描写は『カジノ・ロワイヤル』のヴェスパーの死(と、それを中心に据えたボンドの葛藤)を想起させるのは勿論だが、本作ではどちらかというとボンドの台詞にもある「Back in time(時を遡るんです)」というニュアンス、もしくは直接/象徴的な「死」の意味を含んでいると考えられよう。ヴェスパーの死は今や6年前の出来事であり、ボンドとMが最終的に辿り着くスカイフォールは、さらに遡った場所にあるボンドの出生地だからだ。
 クレイグのボンド映画の過渡期にあたる本作では、細かい「下降」と「上昇」が繰り返される。冒頭の落下、上海でのエレベーターの上昇とビルからの落下(ここではボンドは落とす側である)、マカオのカジノでの橋の下への落下(無事戻ってくる)、地下鉄への下降と地上への上昇、そしてスカイフォールの屋敷にある隠し通路への下降と地上への上昇。最も顕著なのは、シルヴァの追っ手に囲まれたボンドが湖の氷を撃って自ら「落下」し、閃光弾と共に自分の力で水面まで戻ってくる場面だろう。
 冒頭の川への「落下」は、歳を重ねたボンド(またはM)が「古いもの」の象徴となるきっかけであった。一度「死んだ」「終わった」ボンドは、前述の湖の場面で本当の意味での「Resurrection(復活)」を遂げる。Mを看取った後の場面が(おそらく庁舎の)屋上という高い位置にある場所で、その後作中で「下降」の描写はないことにも注目したい。
 作中では「古いもの」「新しいもの」の対比が繰り返し行われる。本作での「新しいもの」の象徴は役者の年齢を大幅に下げたボンドよりも年下のQで、彼らが美術館で出会う場面ではシンメトリーの構図によってそれが表されている。Qとマネーペニーが『カジノ・ロワイヤル』と『慰めの報酬』に登場しなかった理由の一つとして考えられるのは、クレイグのボンド映画が「真面目」さを売りにしたものであったからということだ。それまでのシリーズではこの二人はコメディリリーフとして登場することがほとんどであった。『スカイフォール』で再登場したこの二人はこれ以降も確かに雰囲気を柔らかくするような作用を持たされているが、特にベン・ウィショーのQはクレイグのボンドと並べられることで、ボンドが体現するマスキュリニティを撹乱する、もしくは幅を大きく広げる役割を持たされていると考えられよう。
 『スカイフォール』のラストシーンは、新生Mとなったマロリーのオフィスでの場面である。前任のMのオフィスは白を基調とした現代的なデザインのものだったが、マロリーのそれはかつてバーナード・リーがMを務めていた時代の古典的なものに変わっている。古いオフィスに男二人が立っている様子は時代が逆行してしまったように見えるが、Mという極めて重要なポストが交代したことはこれから先の大きな変化の兆しとも取ることが出来る。マネーペニーの台詞「Old dogs, new tricks」が体現されていると考えられよう。ボンドは本作で自らの過去への「下降」の旅を終えて、あまつさえ過去の象徴であるスカイフォールの屋敷を「I always hated this place(こんな家!)」と言ってダイナマイトで爆破までしてしまう。過去への「下降」の旅が水を介して行われるものであることを考えると、前2作でのヴェスパーが中心にある葛藤とは一度ここで決別したと考えられるのである。
 

『スペクター』(2015)

 
 I have. There’s just one thing I need.
(ひとつ忘れ物をしてね)
 
 『スペクター』では、さらにボンドの出生にまつわるエピソードが登場する。シリーズを通してボンドの戦う相手であり続けている組織「スペクター」の首領、ブロフェルドがボンドの異母兄弟であるという設定も登場するが、宿敵が兄弟であることに対する葛藤は全く見られない。本作は、『スカイフォール』で復活を果たしたボンドの個人史を締めくくる物語である。
 本稿の文脈に『スペクター』を乗せて考えると、本作のボンドは「下降」を自分のものとしていることがわかる。『スペクター』には冒頭とクライマックスに2つの大掛かりな「下降」の場面がある。冒頭、前任のMの遺言に従ってメキシコでターゲットを狙撃したボンドは、爆発した向かいの建物の倒壊に巻き込まれる。割れた屋根に捕まるが彼は自分から手を離し、建物が崩れる中で足場を探しながら落ちていき、最後はたまたま壊れたソファの上に収まる。
 また、クライマックスでは、旧SIS本部に仕掛けられた爆弾が爆発する間際になって本作のボンドガールであるマドレーヌが捕われているところを見つけ出し、先の爆発で開いた穴から彼女を抱えて飛び降りる。最下部にはネットが張ってあり、ふたりは無事脱出に成功する。この2つの場面からわかるように、ボンドにとって今や「下降」は死を意味するものではなくなっている。彼はもう落ちても大丈夫なのだ。
 さらに、オーペルハウザーを捕らえた後、ラストシーンでボンドはひとりQ課に現れる。QのラボはMI6の本部からは離れた地下にあることが前半で説明される通り、ボンドはエレベーターを降りてQの元にやってくる。「Bond? What are you doing here? I thought you’ve gone!(ボンド? 何してるんですか? もう辞めてしまったのかと)」というQに、ボンドは「I have. There’s just one thing I need(ああ。ひとつ忘れ物をしてね)」と答える。
 この、Qの元へ行く場面が本作での最後の「下降」である。『スカイフォール』では家それ自体、『スペクター』ではその延長線上の存在であるブロフェルドという自らの重りを全て取り払い、身軽になったボンドは今や下降も上昇も思いのままなのだ。前作で大破させてしまったものの、Qが復活させたアストン・マーチンDB5はまるで鎖が切れたように走り出し、ボンドはマドレーヌとともにロンドンを飛び去ってゆく。
 
   追記:ここから下が書いた当時は完全に幻覚でした。追記で答え合わせしていきます。
 

『ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2021)

 
It’s hard to tell the good from bad, villains from heroes these days.
(最近はものの良し悪しも、ヴィランかヒーローかも分かり難いから)
 
追記:今ここに台詞から取った小見出しをつけ直すなら、やっぱりI know, I know(ああ、僕の眼だ)かなあ。
 
 
 
 クレイグの最後の作品『ノー・タイム・トゥ・ダイ』は、通算25作目のボンド映画でもある。前回大きな節目となった20本目の『ダイ・アナザー・デイ』(2002、タマホリ)がそうだったように、アニバーサリー作品となる本作は過去のシリーズへの目配せが非常に多い。一つ一つを振り返るのはこれよりもはるかに詳しい記事が沢山あるので控えておくが、特にクレイグの作品に登場した描写にある程度の意味が込められているのは確かだろう。
 
 
   追記:オープニング・クレジットのシークエンスはクレイグ版OPの総まとめみたいな感じなのかなと予想していたけど、やっぱり25作目の記念の意味があるのか『ドクター・ノオ』(1962、ヤング)が大きくフューチャリングされていた(カラフルな丸)。物語に関するモチーフが万華鏡のように映されるのは『スカイフォール』と『スペクター』でシンメトリーを多く使ったサム・メンデスのボンド映画から。プサイを持った(プサイということはあれは)ポセイドン像(かな?)が崩れ落ちる砂の表現は『慰めの報酬』のオープニングの砂丘が連想される。
   『慰めの報酬』の砂丘は例によって巨大な女体に変換されていたけど、今回の砂丘はただの砂である。ちなみに、クレイグ・ボンドの最初の作品『カジノ・ロワイヤル』では、(確か)オープニング・シークエンスに女体が出てこない(逆に言えばそれ以外は出てくる)が、NTTDのオープニングは登場する身体が著しくアップで撮られていて、男女どちらの身体なのかぱっと見では判断がつかないように感じた(とは言え、臍が大写しになるショットで「ああやっぱり女体なのかな」とは思ったけど)。
   丸い形はガンバレル・シークエンス(ボンドが銃口カメラに向かって発砲するシークエンス)のようにボンド映画それ自体の意味も持つけれど、今回はクライマックスでボンドが開ける天井の扉の形や、DNAの螺旋状の配列を上から見た形でもある。
 
 
 『スカイフォール』と『スペクター』の2作品は、英雄の死と復活、葛藤、終わりを描いたものであった。本作はそういった意味で、「続き」というよりはクレイグのボンドが「終わった」後の物語だと表現した方が正しいだろう。『カジノ・ロワイヤル』から『スペクター』までは、監督や脚本家が交代してはいるものの、明確に「続き」の姿勢が取られていた。ル・シッフルからオーペルハウザー(ブロフェルド)までがスペクターという一つの組織に繋がっているというだけではなく、それぞれのヴィランがボンドの個人的な葛藤や復讐と直接的な繋がりがあるという二つの意味においてである。本作のヴィランであるサフィンは、マドレーヌを攻撃するためにボンドに接触するという点で、これまでの悪役とは文脈が違うのは確かだろう。
 
 
   追記:「『スペクター』であんなにちゃんと「終わった」のに、あれ以上何を続けるんだ」と思っていたから、ある程度独立した話になるんだろうなと思ってこう書いていた。だけどそれも違って、ストーリーとしてはかなり明確な「続き」だった。(私の記憶が合っていれば)NTTDが公開された今、これでクレイグ・ボンドは初めから終わりまで全て話が繋がっている初めてのボンド映画になった。そしてそれはたぶん、クレイグのボンドが「個」として描かれ続けていたこととかなり関係が深いのだろうと思う。
 
 
 本作で強調されるのは、これまで個人的な葛藤と戦い続けてきたクレイグのボンドが完全な「公僕」として最後の任務を遂行するという点だ。特にシルヴァがそうだったように、サフィンは作中で確かにボンドと対比され、「鏡を見ているようだ」と自分とボンドがいかに似たもの同士であるかを語りさえするが、ボンド本人と個人的な繋がりがあるわけではない。ジャマイカで再会した旧友フェリックスはボンドに科学者の救出を頼む際、「It’s hard to tell the good from bad, villains from heroes these days.(最近はものの良し悪しも、ヴィランかヒーローかも分かり難いから)」と口にする。『スカイフォール』において、ボンドとシルヴァを分つものは前任のMへの忠誠心というその一点のみだったが、それが頼りにならない本作では、ボンドは「公僕」としての振る舞いをより一層確かにすることで、サフィンと自分がなぜ違う人間なのかを自分で証明しなければならないのだ。
 
 
   追記:フェリックスのこの台詞は予告の時点ですでに出ていたもので、こねくり回して軸として使いました。
   この「公僕として」云々は少々複雑な話になる。もともと「終わった」後の話だろうと思っていたので、ここまで書いてきた個人と組織の間での葛藤はもはや問題にならないだろうと去年の私は予想していたらしい。
   NTTDを観ると、確かにボンドはもう「MI6の007とジェームズ・ボンドという個人どちらをとるのか」という葛藤は持たなくなっている。持たなくなっているというか、ノーミがいるから持ちようがないと言ったほうが正しいかもしれない。ノーミが後任の007という設定はかなり重要で、個人としてのボンドが(これまでの4本のように)簡単に007に戻らないよう、ストッパーの役割を果たしているように見える。ノーミがいるからボンドは個人のジェームズ・ボンドとして銃を取らざるを得なくなり、結果として「ジェームズ・ボンド個人(銃を捨てた人)」と「エージェント007(銃を持つ人)」の境界がこれ以上ないほど曖昧なものになっているのだ。
   注目したいのは、最後にノーミが「ボンドを007に戻しましょう」とMに進言してそのストッパーを外し、ボンドは結局007の称号がある状態でサフィンの島に向かうという点である。007のジェームズ・ボンドが敵の組織に乗り込む、いつもの状態で。
   特にマドレーヌと娘のマチルドを見送ってからは、今までの4本を通して繰り返し行き来してきた「「ジェームズ・ボンド個人」と「エージェント007」どっちなのか」問題を今度こそ解決する最後の作業がなされる。というのも、(私が聞き逃していなければ)ここでは誰しもがボンドのことを「ジェームズ」と名前で呼んでいるからだ。マドレーヌはもともとボンドのことを名前で呼んでいたが、ここではノーミも「ジェームズ」と、Qも「ジェームズ、早くそこから脱出して下さい」と名前で呼んでいる。特にQは、過去の2作ではいつも「007」または「ボンド」と、必ずコードネームか苗字で呼んでいた。007の称号を持つボンドを「ジェームズ」と呼ぶ、つまりは「ジェームズ・ボンド個人」と「エージェント007」は表裏一体で、どちらも捨て去らない、どちらも本当の姿と結論づけているように見えるのだ。
   こうして「ジェームズ・ボンド個人」と「エージェント007」は一つのものとなるが、梯子を登って最後に「上昇」したボンドがまさに死のうかという時、ジェームズ・ボンド=007とイコールで結ばれるものがもう一つある。ダニエル・クレイグだ。マドレーヌはボンドと交わした最後の会話で、マチルドが彼の子供であることを伝えようと「Blue eyes(青い目よ)」と言い、ボンドはそれに「I know, I know(ああ、僕の目だ)」と返す。「青い目」とは言うまでもなくダニエル・クレイグのおそらく最も有名な身体的特徴で、役に抜擢された当時は盛大なバッシングを浴びたが、今ではボンドのアイコンの一つとなった。「ボンドは青い目である」とおそらく初めて作中ではっきりと言葉にすることで、ジェームズ・ボンド=007=ダニエル・クレイグの図式を完成させ、クレイグの花道としたのだろう。
 
 
 
 『スペクター』と同じく、『NTTD』においてもボンドにとって「下降」はもはや問題ではない。この文脈において本作で問題となるのは、『スペクター』ではっきりと画として登場しなかった「上昇」の描写である。明らかに『スカイフォール』からの引用であろうボンドが氷の張った湖に落ちる場面もあるが、本作ではそれらに対する「上昇」が何度かある。最も分かりやすいのは、クライマックスでボンドとダブルオーの一人であるノーミがサフィンの組織が運営する施設に飛行機で向かう場面である。Qが修理したアストン・マーチンに乗ってロンドンを去る『スペクター』の最後の場面は象徴的な「上昇」と取ることができるが、ここでのボンドはQの作った飛行機で実際的に空を飛んでいく。『スペクター』での最後の「下降」の場面にあったQとボンドのやりとりが「上昇」によって再演されるのだ。前作ではダブルオーから一個人に戻る瞬間であったのに対し、本作ではボンドがこれまでで自分のものとした「007」の仮面を被って任務に向かう最後の瞬間であるため、Qはボンドを敬礼で見送るのである。
 
 
 
   追記:「下降」、めちゃくちゃ問題だった。冒頭のシークエンスで子供時代のマドレーヌは『スカイフォール』のボンドにのように湖の中に落ち(このショットの人影がマドレーヌだとは思わなかったな)、ボンドも水中でフェリックスを失い、クライマックスでサフィンに撃たれて毒の池に落ちる。今回、ボンドは『スペクター』のような「落ちても大丈夫な人」では全くない。
   上記の段落は、「NTTDでボンドに「上昇」の場面があったらいいな」と一番の願望を込めたところで、予告編で出ていたQがグライダーを飛ばす場面を当てはめて書いたのだった。
   いざ観てみるとどうだろう、『スペクター』で「エージェント007」ではなく、銃を捨てた「ジェームズ・ボンド個人」をなんとも言えない表情で見送ったQが、NTTDでは任務に出るボンドを敬礼で見送っている。Qは本名でスパイ活動をするボンドとは違い、(ごく初期にジェフリー・ブースロイドという名前はあるものの)作中で本名が明かされていないキャラクターでもある。クレイグのボンドが「個人か007か」という問題で揺れ動くキャラクターである限り、Qという名前しか持たないベン・ウィショーのQとの間にはある種の緊張関係が生まれる。007の称号を取り戻したボンドを敬礼で見送り、それが今生の別れになったボンドとQの関係の終着点は、ここでは贔屓目をたっぷり入れて、コードネームだけのキャラクターであるベン・ウィショーのQへ敬意を払ったものとして捉えておきたい。
   そして、キャリー・ジョージ・フクナガは、「下降」は過去作からの引用として使っていたかもしれないが、少なくとも「上昇」させることには自覚的だったのではないかと思う。クライマックスで毒の池に落ちたボンドは、自分の力で梯子を登って「上昇」してゆく。『スペクター』の猛スピードでロンドンを飛び去るDB5のように、消して派手でスタイリッシュではないけど、死の象徴である水の浮力を使わずに自分の力で上に昇ってゆく。
   「下降と上昇」で過去の作品を読んでいた自分はこの描写で胸がいっぱいになってしまった。ボンドは梯子を登って確かに死に向かって行くが、この文脈で言うとそれは生そのものを指している。ちょうどMが読んだ「存在するだけでなく生きなければならない」という詩のように、鮮やかな「上昇」を完成させた。
   
 
 
 『NTTD』は、アニバーサリー作品であることも相まってこれまで以上に自己言及的で、さらにクレイグのボンドがシリーズの「過渡期」であることに対して自覚的だ。シリーズのプロデューサーがバーバラ・ブロッコリに交代したことで、ブロスナン版から始まったボンド映画の様々な面での「解体作業」が『NTTD』で一旦終わりを迎えていると私は考える。監督がサム・メンデスからキャリー・ジョージ・フクナガに交代し、本作はロジャー・ムーアのボンド映画のような、70~80年代のハリウッド大作的な煩雑さ(エジプト系アメリカ人のラミ・マレックに羽織りを着せるような、おそらく意図された煩雑さであろう)が再び見えるようになった。冒頭でも述べたように、『カジノ・ロワイヤル』から始まったクレイグのシリーズは至極真面目なボンド映画であった。『NTTD』は、「変化の始まり」であるクレイグのボンドの「終わり」の作品として、前世紀のボンド映画を新しい感覚で回顧していると捉えられる。後ろを向きながら前進していく奇妙なシリーズであるボンド映画の姿勢に自覚的になることで、ダニエル・クレイグジェームズ・ボンドを華々しく祝福しているのである。
 
   追記:まとめの段落というのは大概私はふわっと書いてしまうもので、ここはあまり直す箇所がない。キャリー・ジョージ・フクナガは確かにロジャー・ムーアの時代のボンド映画を2021年により「正しい」状態で蘇らせようとしていると思うし、それはある程度成功していると思う。未だに悪役に顔の傷があったり、枯山水や能面がアクセサリー的に使われていたりする部分が過去のボンド映画からただスライドされている状態なのは無視すべきではないと思うけれど。少なくともマドレーヌは前作よりも血肉ある人間になっていて、ノーミとパロマを登場させたのも大成功だった。
   元々は60年代という時代を背負ったことでヒットしたボンド映画が「古い」「時代遅れ」と呼ばれたのは、今に始まったことではない。ジェームズ・チャップマンによれば、ジョージ・レーゼンビーの『女王陛下の007』(1969、ハント)あたり、つまり60年代が終わる頃にはすでに「過去の遺物」と言われていた*1。ボンド映画はそのほとんどがどこかしらで過去を回顧していると考えると、本数が増えるにつれてその傾向はどんどん強くなっているということは簡単に想像できる。NTTDは、そのレールを残したまま今25本目を作るとどうなるのか、という結果がよくわかるとても面白い映画だった。上記で去年の私はボンド映画のことを「後ろを向きながら前進していく奇妙なシリーズ」と表現したけれど、実際に観てもやっぱり「後ろを向いたまま全力疾走してるな〜」と思った。まさか過渡期の終わらせ方が「主人公を爆発させる」だとは思っていなかったけど、それくらい「一旦終わり」の気持ちが製作側に強いのだろうなとも思った。
   過去の作品を観ると、ボンドは結婚と家庭にトラウマのある男として描写されていたことがわかる。『女王陛下の007』以降ロジャー・ムーアのボンド映画数本でなんとなくこの設定は続き、ティモシー・ダルトンの『消されたライセンス』ではそれが久しぶりに浮き彫りになっていたと記憶している。「ボンドと結婚、家庭」という文脈でシリーズを観た時、NTTDはかなり重要な一本になると思う。
   そういった過去のシリーズから引き継いできた文脈があるから、あんなにはっきりボンドが「死ぬ」という結末が効いてくる。とにかく一旦これで今までのボンドは(ある程度)「終わり」ということなのだ、たぶん。でもJameds Bond Will Returnなので、26本目ではあの爆発跡からジェームズ・ボンドの何がしかが拾われて、また後ろを向きながら前方に進んでいくんじゃないだろうか。
 
 
 以上、ここまで(果たしてここまで読んでくれる人はいるのでしょうか)読んでくださってありがとうございます。2年間溜め込んだ青い眼のボンドさんへのラブレターでした。
 
 
 

*1:ジェームズ・チャップマン『ジェームズ・ボンドへの招待』、戸根由紀恵訳、徳間書店、175-176頁

トランクの中の聖域:「モノ」と「境界線」から観る『ファンタビ』

ファンタビ3作目のタイトルが発表されたので、記念に去年頒布した本に収録したファンタビ考を投稿します。もともとここにあった記事を加筆修正したものです。二作目に関する考察を書き足しています。

私はJKRのトランスジェンダーに関する見解には賛同できません。物語の続きが語られるのは楽しみではありますが、複雑な気持ちでもあります。主演した俳優たちが賛同しない意を表してくれたことにはとても勇気づけられました。

 

***

 

 

1.ジェイコブ・コワルスキーと世界で一つのトランク

 

 JKRの世界は「モノ」が意思を持つ。杖が魔法使いを選び、嗅ぎタバコ入れは噛み付き、帽子が歌い出す。ゴブレットをネズミに変えたりティーカップをジョギングさせたり、人間が魔法をかけることで人為的に「モノ」に意思のようなものを持たせることをも可能だ。しかし魔法界には、まるで「モノ」がひとりでに意思を持ったかのような、誰に言われるでもなく元から「生きて」いるかのような、「生きモノ」たちが大量に(大勢?)存在する。 

 辻井朱美「「モノ」語りの宇宙」(『ユリイカ』2016年12月号、青土社)は、ハリー・ポッターの世界を「モノ」という視点で見た興味深い論考である。原作の小説では、「モノ」たちは背景として存在するだけだったが、視覚的に再現された「モノ」が持つ過剰なエネルギーについて論じられている。JKRの魔法界は、動き回る「モノ」たちによって活性化され、観る者に「開放感」を与えるというのだ。 

 辻井によれば、そういった「モノ」たちの延長線上に、魔法動物は存在する(厳密に言えば、動物のようなそうでないような生き物たち(守護霊やアニメーガス)も存在する)。そして、『ハリー・ポッター』においては、ハグリッドがそんな魔法動物たちを理解し彼らと共存しようと訴え続けてきた。興味深いのは、5作目『不死鳥の騎士団』において、アンブリッジの権力により学校がコントロールされる前半部分ではハグリッドは不在であるという辻井の指摘である。DA(ヴォルデモートから身を守るためにハリーを中心に結成された「闇の魔法に対する防衛術」の集会)に所属する子供達が習得した、動物の姿をした大量の守護霊が登場するのはすぐその後の展開だ。 

 私がもっとも興味を惹かれたのは、論考の一番最後の段落に書かれた「「モノ」が生きて動く世界には、真の意味での終焉は存在しない」という一文である。ホグワーツの校長室に飾られた歴代の校長たちの中にダンブルドア(とスネイプ)が加わり、死者が永遠の存在となることを示した最終巻の場面のことである。 

 ここからは私の論考だ。『ファンタビ』は、ニュートのトランクのような「モノ」が非常に重要な役割を与えられているばかりか、魔法動物たちが「モノ」の延長線上の存在である事が『ハリー・ポッター』よりもはっきりと描かれている。『ハリー・ポッター』では、「モノ」としての役割を与えられている動物は滅多に登場しない。馬車を引くセストラルぐらいだろうか。動物を動力や乗り物という「モノ」的な扱いをすることに対して、旧シリーズはかなり慎重な姿勢を見せる。ヒッポグリフが登場した『アズカバンの囚人』を通して語られるバックビークの物語にはそれが顕著に現れていよう。 

 ところが、『ファンタビ』にはそうした場面は今のところはっきりと出てきていない。ニュートがボウトラックルをピッキングに使ったり、躊躇なくケルピーやズーウーに乗り、スウィーピング・イーヴルをティナの踏み台にさせるのは、もちろん彼が既にそれらの動物たちと信頼関係を築き上げ、尊重して扱っているからに他ならない。作中でもっともニュートの手を焼かせているニフラーは、宝石店に自分を探しにきたニュートの目を逃れるためにじっと動きを止め、「モノ」のように振舞って見せることさえする。ついでに言えば、ニフラーは「光るモノが好きで巣に溜め込む」という習性を持っている、物欲のある、「モノ」に執着する魔法動物である。 

 そういった魔法動物たちを(まるで「モノ」のように)持ち運ぶツールであるトランクだが、『ファンタビ』には手作りのパンが入ったもう1つのトランクが登場する。ニュートとジェイコブは、トランクという「モノ」によって繋がっている。冒頭のトランクの取り違えは、彼らのトランクが見た目が良く似ている、つまり一見交換可能なものであるから起こった事だ。この「交換可能」なものとそれに対する「交換不可能な唯一のもの」という概念は、作品を通してジェイコブにつきまとっている。缶詰工場で働いていたが、それが嫌になりパン屋になって人を幸せにしようと決意した、という彼のバックグラウンドはまさにそれを表しているだろう。工場という全く同一の交換可能なものが生産される場所を拒否して、彼は「唯一のもの」になろうとするのだ。それは、『ハリー・ポッター』でマグルという名のもとに一括りにされた魔法が使えない退屈な存在(つまり、私たち読者)を、「唯一のもの」であると肯定しようとする作業であるとも言えよう。

 映画の終盤で、ジェイコブは嫌な記憶を消す作用があるサンダーバードの雨に打たれようとする。引き止めようとしたクイニーに彼は「There's lots of like me(俺みたいなやつなんて沢山いる)」と卑屈になるが、彼女は「No. There's only one like you!」あなたみたいな人ほかにいない)」と、彼がパン屋になるより早くジェイコブの唯一性を肯定するのである。ニュートのトランクという「この世に1つしかない唯一のモノ」を取り違えて出会うという冒頭の場面は、ジェイコブが自身を肯定する結末を示唆しているようにも考えられる。ニュートのトランクは一見交換可能な普通のトランクだが、中には魔法の巨大な世界、つまりニュート自身の持つ世界で一つだけの空間が広がっている。ジェイコブも最終的には、トランクの中という限定された空間にしかなかったパン屋の夢を、ニューヨークの街に実際のものとして拡張することに成功する。さらに、店内には彼が無意識のうちに作った魔法動物の形をしたパンが(まるでニュートのトランクの中のように)所狭しと並んでいるのだ。コワルスキー・ベーカリーは、ジェイコブ自身の「魔法のトランク」なのである。 

 言うまでもなく、ニュート・スキャマンダーの持つトランクは彼の内面の象徴である。人よりも動物が好きでいつも人間からなんとなく目を逸らしているニュートにとって、トランクという自分の世界は本来不可侵の領域であり、おそらく滅多に他人を入れない場所であるということは想像に易い。ところが、ニュートはジェイコブにだけは出会った当初からかなり好意的な態度をとっている。怪我の手当てをしなければならなかっということもあるだろうが、餌やりを任せたり自分のこと下の名前で呼ぶよう言ったりする。それはおそらく、ジェイコブが自分と同じ「トランクを持つ人」であり、さらにその中に焼きたてのパンという「自分の世界」を持っている人であるからだろう。故に、ニュートはジェイコブの「トランクの中身」を知ろうと彼に色々と質問するのだ。「人に好かれるでしょう?」「どうしてパン屋になろうと思ったの?」と。死刑にされかけるニュートがジェイコブにかける言葉も「I hope you got your bakery(自分のパン屋が持てるといいね)」であり、実際そのためのオカミーの卵がギッシリ詰まったトランクさえ与えた。自分の世界を持とうとする、もしくは既に持っている生き物に対して、ニュートはとても寛容なのだ。 

(「自分の世界」ということに関して言えば、無意識に他人の心を読み取ってしまう開心術師のクイニーと、強固な自分の世界を持っているニュートの間にはある種の緊張関係がある。それは、ニュートとジェイコブが姉妹のアパートに招かれた際、こっそりドアノブに手をかけようとするニュートにクイニーが「Hey Mister Scamander, you prefer a pie or a studel?(スキャマンダーさん、あなたはパイとストゥーデルどっちが好き?)」と声をかけ、有無を言わさず食卓に着かせるという場面から始まっていよう。自分の世界観があれほどにもはっきりしているニュートにとって、常に自分の世界に他者の声が入り続けているクイニーは少々不思議な存在であろう。)

 

 

 『ファンタビ』の舞台である1926年のアメリカでは、魔法動物は犬や猫といった普通の動物とは違い、姿形や性質、習性を社会から危険視される「はぐれ者」である。特に、姿形と自身の意思のつながりは『ハリポタ』を含めたこのシリーズにおいて重要だ。だんだんと自分の姿のコントロールが効かなくなっていくマレディクタスのナギニと、感情と力が暴走して人の形を保てなくなるクリーデンスは、そういった意味でつながりを持っている。動物に変身できるアニメーガスは強力な魔法使いしか習得できない魔法である。自分自身がどのような姿になるのかという決定権は、この世界では強さに繋がるのだ。逆に、否が応でも月一回変身してしまう人狼は、それゆえに悩み苦しむことになる。 

 ニュート・スキャマンダーはいわばはぐれ者(はぐれモノ)の収集家であり、彼自身の内的性質と社会から疎まれる動物たちにつながりを見出していると考えられよう。「彼自身の内的性質」とは、つまり、「はぐれ者に愛着を持ち収集し、ゆえに彼自身もはぐれ者となる」という、動物たちなしには成立しないものであることにほかならない。無数の魔法動物たちが住むニュートのトランクにおいては、彼らが無数の多様な生き物であるがゆえに、「普通」と「おかしなもの」が二極化している当時の魔法界の価値観が引く境界線(劇中のピッカリーの台詞’There's no obscurial in America’これを体現する)が意味をなさなくなる。そして、劇中で魔法動物たちがニューヨークに飛び出すことで、アメリカの魔法界が引く境界線をも揺るがしてゆく。ニュートのトランクの中は、普通の人間の姿をしたニュートを含む生き物たちがあまりにも多様であるが故に、その境界線が曖昧になる空間なのだ。そういった彼の心の中に、観客は彼と同じ「トランクの中の自分の世界」を持ったマグルであるジェイコブを通してアクセスするのだ。 

 

2.ゲラート・グリンデルバルドと青い境界線

 

 前項に書いたピッカリーの台詞、’There's no obscurial in America’についてもう少しクロースアップしたい。というのも、この台詞は二作目以降の魔法界に大きく関わってくると考えられるからだ。

 まずはこの台詞が発された状況を簡単に整理したい。この台詞は、一作目でティナがニュートとジェイコブをトランクごと会議中のホールに持ち込んだときにピッカリーが言っていたものである。英国魔法省の魔法大臣を含む世界各国のトップが集まっている会議で、ピッカリーはニューヨーク市議会議員であるヘンリー・ショーの死因がオブスキュリアルによるものではないのかと責任を問われていた。obscurial (オブスキュリアル)とは、シリーズ中でおそらく鍵になるであろう特性を持った魔法使いのことを指す。魔法の使い方を学ばないままその力を強く抑圧されると、力が暴走して周囲の生き物を傷つけてしまうまでになる。オブスキュリアルという言葉はそんな力を持つ魔法使いのことを指し、力そのもののことをオブスキュラスという。

 英語のobscure(オブスキュア)という語をオックスフォード英語辞典で引いてみると、「はっきりわからない(uncertain)」「重要でない、知られていない(not important or well known)」「はっきり表現できない、理解できない(not clealy expressed, or easily understand) 」と出てくる。曖昧なものというような意味があるようだ。

 何が言いたいかというと、ピッカリーの台詞は二重の意味を取ることができるのではないかと思うのだ。ただ単に「アメリカにオブスキュラスを持つ者はいない」という意味の他に、「アメリカには曖昧なものなどない」と言っているように聞こえる。個人的にはこの善悪の単純化というか、つるりとしたプラスチックのような正義感が非常にアメリカっぽくて好きなのだが、しかしこの「曖昧なものを許さない」という姿勢は、誰あろうグリンデルバルドのそれでもある。ピッカリーのこの台詞は、シリーズがこの先曖昧なものが許されない世界、敵か味方かはっきりしないものが許されない世界、すなわち戦争の世界へと入っていくことを示唆していると考えられるのである。

 一作目ではジョニー・デップカメオ出演的扱いだったグリンデルバルドは二作目からいよいよ主要なキャラクターとして登場し、曖昧さを次々と「分断」という行為によって潰してゆく。そして、『黒い魔法使いの誕生』のクライマックスが示したように、グリンデルバルドが分断するのは魔法使いとマグルだけではない。ペール・ラシェーズ墓地で彼は自分の周りに青い炎で大きな円を描き、自分の側に付く者だけがこの炎を通り抜けることができると言う。この場面で魔法使い同士、仲間同士の分断が行われ、ティナとニュートを除いてカップリングされていた男女のいずれかが引き裂かれてしまう。

 ピッカリーの一作目での台詞に対するものは、魔法動物と自分と外の世界の境界が曖昧なニュートその人であった。トランクの中身が出てしまうという展開自体、彼の曖昧さを表しているとも考えられる。「トランクの中身が勝手に出てしまう」ことは二作目にも登場し、クイニーがフランス魔法省の受付にやってくる場面がこれに当たる。ニュートのそれとは対照的にこちらは非常に居心地が悪く、恥ずかしい思いをするものとして描かれているところも注目すべき点だろう。もはや自分と外の境界が曖昧になることは許されないのだ。

 二作目の冒頭、魔法省に曖昧な態度を取り続けるニュートに痺れを切らしたテセウスはこんなことを言う。「Pick a side. Even you.(どちらの側に付くか選ぶんだ。たとえお前でも)」。ニュートはもちろん「i don't do side.(どっちの側にもつかない)」と返すが、実際にグリンデルバルドと相対し、リタが死んで悲しむ兄を抱き締めた彼は最後にこう言い直すのだ。「I chosen my side.(どっちの側に付くか決めたよ)」と。一作目を通して「曖昧さを愛する曖昧な人」であったニュートでさえもそれを押し込めたこの台詞と、ダンブルドアがグリンデルバルドとの境界をこれ以上ないほど曖昧なものにしていた血の契りを破ろうと決意する場面を以てして、『ファンタスティック・ビースト』は戦火の魔法界へと突入してゆくのだ。

 本シリーズにおけるトランクとは、前項でも述べたように「自分の世界」「頭の中」である。これから魔法界が戦争の世界へ入っていくならば、グリンデルバルドが分断のために引いた線が太くなればなるほど、ニュートのトランクも彼がその曖昧さを守るべき個人的な空間としてますます意味を持つようになる。「自分の世界」で築いたいかなる関係、動物やパンやあらゆる物語との関係は、たとえ誰に何を言われようと不可侵のものであるべきだからだ。

 個人的には、『ハリー・ポッター』でもそうだったように

「リディキュラス(ばかばかしい)」の呪文が登場すると魔法界は近いうちに戦争状態になる、と思っている。辛い状況へのカウンターのように登場するこの呪文は、『ファンタビ』でもダンブルドアがボガート退治の授業で子供時代のリタとニュートに教えていた。この先のシリーズが暗くなる一方だとしても、魔法動物たちやニュートの穏やかな場面が不可侵のものとして多くあることを祈るばかりである。

 

*本稿は2020年6月にnoteに投稿した記事を加筆・修正したものです

 

 

クレイグ・ボンドを語るための思考実験

去年発行した映画考察本に載せた記事です。8月に本ブログに投稿した記事が元になっているので、そちらはこの記事の公開に合わせて非公開にします。

2020年の夏から秋にかけて、つまりまだ一度目の延期期間(2020年11月の公開を待っていた状態)に書いたものです。これを書き終えるや否や二度目の延期のニュースが耳に入ることを以下を書いている私はまだ知りません。

 

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 007の新作、『ノー・タイム・トゥ・ダイ』(以下NTTD)が公開延期になってしまったことが、仕方のないこととはいえとても悲しい。でも、どうせなら11月までに過去の007映画を全部観て、あわよくば関連作とかも全部観て、当たれる文献も目を通せたら、NTTDを既に観たという設定で架空レビューとか書けるんじゃないか、とポジティブに考えることにした。007シリーズは沢山あるのでゆっくりと目を通していくことにして、ダニエル・クレイグの出演作とか、サム・メンデスの映画を観たうえで改めてクレイグ・ボンドを語ってみたら面白いんじゃないだろうか。NTTDの架空レビューを書いたとしても、書くために観た映画や持った感想は架空ではないのだし。 

 と、いう経緯で始まった思考の流れを書いていこうと思います。ちなみに007は『死ぬのは奴らだ』まで観ました(2020年3月末時点)。今のところショーン・コネリーのボンドがかわいくて仕方ないです。ロジャー・ムーアはいきなりサメとかワニとかと戦って大変だと思う。 

 

1.サム・メンデス版ボンドが終わらせようとしているもの 

 

 とりあえず、サム・メンデス版ボンドの好きな部分を2つ並べるところから始めてみようと思う。 

 

サム・メンデスの007映画はどちらも素晴らしいと思うけど、どちらか一つと言われたら『スカイフォール』を取る。それまで007は大昔に『ドクター・ノオ』を観て挫折した以来観ていなかったのだけど、『スカイフォール』はほんとうにおもしろかった。多くの場合でスパイが戦うのは外部の敵だけど、その過程でサブプロット的に登場する内部で発生した敵を主なヴィランに据えるという構成を取っているのがとても好みだった。そしてそのヴィランとボンド自身の過去を繋げようとする、内省的で個人的な、あまりスパイ映画らしくない印象だったのも好きな理由の一つで、これと同じ理由で私は一番最初の『ミッション・イン・ポッシブル』が好きだったりする。 

 

・『スカイフォール』は、ボンドを「廃船」「老犬」と呼ぶところからスタートする。もう若くない、死ぬ前に引退するか引退する前に死ぬかどちらかのことがすぐに起こるだろうという感じのボンドを、最後にもう一度前線に引っ張りだす、そういう軸が一本『スカイフォール』『スペクター』には通っている(憶測だけど、たぶんNTTDにも)。ダニエル・クレイグのボンドを「終わらせる」ための物語、というのが自分のサム・メンデス版ボンド映画への基本的なイメージである。 

 

 そして、たぶん、「終わらせ」ようとしているのは、ダニエル・クレイグのボンドそれ自体だけではないんじゃないのかな、というのがここで考えたいことだ。ジェームズ・ボンドという一大フランチャイズが抱えてきた揺るぎない男性性のイメージも、ダニエル・クレイグのボンドと一緒に葬ろうとしているんじゃないだろうか。 

 ショーン・コネリーのボンド映画をあらかた観て思ったのは、まるでフィルムスタディーズの教科書のような男性主義的な「視線」の描写が満載であるということだった。ショーン・コネリーのボンドは本当に魅力的でチャーミングだが、「ボンドは女を好きなように見ることができるが、女は決してボンドを見ることができない」という強固な視線の構造がある。歴史の教科書でも読むような気持ちで観てしまった。このほかにも観る人が観たら、ジェームズ・ボンドの男性性がいかに揺るぎないものとして描かれているかが分かるのではないだろうか。 

 シリーズを全て観ることをしないで1960年代と2010年代のボンド映画を比較してもあまり意味がないのは前提として、もしサム・メンデス版ボンド映画に横たわる「終わり」のイメージに付随するものがあるのであれば、こういった類の男性性なのではないかと考えた。

 では次に、サム・メンデス版ボンド映画のどういうポイントが、それまでのジェームズ・ボンドらしからぬ(と推測できる)男性性の揺らぎを示唆しているのか、ということを考えてみる。

 『スカイフォール』を観た時に「あれ?」と思ったのが、後ろ手に拘束されたボンドとシルヴァ(ハビエル・バルデム)が対峙する場面で、シルヴァがやたら意味ありげな手つきでボンドの顔周りに触れていたところだった。意味ありげというのは、とても曖昧な描き方だったと思うけど、性的なものとも取れなくもないような「意味ありげ」な手つきで、そんな風に触られたボンドは「what makes you think first time?」(初めてに見えるか?)と返す。あれ、ジェームズ・ボンドってバイセクシャルなんだっけ、とごく自然に考えた。 

 こう考えると、『スカイフォール』『スペクター』で起こっていると思われるボンドの男性性の解体が、ただサム・メンデス版に限ったことではないのではないかと思えてくる。 

 というのも、『カジノ・ロワイヤル』では、はっきりと男性性をはく奪されることを示唆されるような拷問のシーンがあったからだ。改めて観返してみた時、それまで不動のイメージがあったボンドの男性性が脅かされるような展開があるのか、とかなり驚いた。そして、ダニエル・クレイグ自体よく拷問に合っていなかったっけ、と思い至った。 

 

2.ダニエル・クレイグ、「見られる」俳優

 

 ここでもう少し視界を広げて、ダニエル・クレイグがどういう作品に出演してきたかというアプローチで考えてみる。 

 全ての出演作はカバーできていないが、ダニエル・クレイグは少なくとも「見られる」側の役を演じた経験がある俳優だろう。『愛の悪魔 フランシス・ベイコンの歪んだ肖像』(1998)、『Jの悲劇』(2002)、それからボンド以降では『ドラゴン・タトゥーの女』(2011)。もちろん『カウボーイ&エイリアン』(2012)のようなあからさまな白人男性ヒーローも演じてきたが、クレイグのフィルモグラフィの中に「視線の客体」というアウトラインは容易に引くことができるだろう。

 男性性、というキーワードで引っかかってくるのは『ドラゴン・タトゥーの女』である。これを撮ったデヴィッド・フィンチャーの映画の多くは男性性がテーマになっており、『アド・アストラ』(2019)で有害な男性性と向き合ったブラッド・ピットも、フィンチャー3本の映画で主演を務めた。フィンチャーの映画には、社会が規定した男性性に苦しむ人物がよく出てくるが、ブラッド・ピットの場合はキャリアとその作風の相性が非常にいいのだろう。ただ、『ドラゴン・タトゥーの女』にはルーニー・マーラが演じた強烈な女性ヒーローが登場し、主人公ミカエルは彼女に幾度となく助けられる。原作モノというのもあり、リスベットの存在によってミカエルはそれまでのフィンチャー映画に登場した男性像とは少なからず違ったものになっているのではないかと思う。どう違っているのかと聞かれるとまだ言葉にはならないのだけど。 

 そして実際、『カジノ・ロワイヤル』(2006、キャンベル)にはクレイグが明確な視線の対象となるようなショットがある。バハマのビーチで水着姿のボンドが海から上がるショットは、『ドクター・ノオ』(1962、ヤング)のボンドガールであるウルスラ・アンドレスの登場シーンそのものと言ってもいい(この場面も、コネリーのボンドがアンドレスを双眼鏡で見ている)。その直後に最初のボンドガールであるソランジュをボンドが一方的に「見る」という描写はあるにせよ、視線の対象となる裸体がクレイグとなっていることは確かだ。

 実はクレイグは『スカイフォール』以前にもサム・メンデス監督作品に出演しており、『ロード・トゥ・パーディション』(2002)で彼はアメリカンマフィアのドラ息子を演じた。ポール・ニューマン演じる父親に愛されなかった悲しみを、彼とは対照的にその寵愛を一身に受けていたトム・ハンクスにぶつけようとする空虚な悪役である。にもかかわらず、彼は裸婦像のようにソファに寝そべり、煙草をふかす官能的なショットで登場する。後ろ手に拘束されたクレイグのボンドが、ハビエル・バルデムに顔や首回りを触られるという「受け身」の場面が『スカイフォール』にあるのも、これなら頷ける。サム・メンデスが持つクレイグへの一種のイメージなのだろう。 

 なにが言いたいかというと、サム・メンデスのボンド映画ではっきりと露出した(と私が考えている)ボンド的男性性の解体は、おそらくダニエル・クレイグという俳優を選択したところから始まっているのではないか、と考えられるということだ。

 これは、歴代のボンド俳優がどういったキャリアを積んで、どんなイメージを持たれた上でボンドにキャスティングされたかを加味しないと論証できないところではある。しかし、「ボンドは女を好きなように見ることができるが、女は決してボンドを見ることができない」という男性主義の視線の鉄則が横たわっているこのシリーズに、視線の客体となる役を過去に演じてきて、ひょっとしたらそういうイメージがすでについていた可能性のある俳優をボンドにキャスティングするというのは、それなりに舵を切った選択だったと言えるのかもしれない。 

 さて、ここまで来ると浮かんでくるのは一つだ。ダニエル・クレイグをボンドにキャスティングしたのは一体誰なのだろうか? 

 

3.ブロッコリ親娘とアップデート

 

 映画プロデューサーのアルバート・ブロッコリは、イアン・フレミングの小説の映画化権を購入し、それ以来イーオン・プロダクションは『007 ドクター・ノオ』(1962)をはじめとするボンド映画を製作してきた。バーバラ・ブロッコリアルバートの娘であり、『007 ゴールデンアイ』以降、異父兄弟のマイケル・G・ウィルソンと共同でシリーズをプロデュースしてきた。  

 ブロッコリとウィルソンは、007シリーズの制作において非常に強い発言力を持っている。『ニューヨーク・タイムズ』紙によれば、クレイグを6代目ボンドにキャスティングしたのもこの二人である。そして、注目するべきは、女性プロデューサーであるブロッコリが作中の女性描写を先進的なものとするよう注力してきたこと、そしてその中で特にクレイグ版『007』における女性描写は「これまでよりもはるかに現代的になっている」と話していることだ。 

 サム・メンデス版に限らずクレイグ版に登場するボンド・ガールたちがどのように現代的なのかは、検証すれば自ずとわかることだろう。クレイグ版だけでも、『カジノ・ロワイヤル』(2005)から『ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2020)までは15年の歳月が流れているので、MeToo運動の流れを含んだ大きな変化が見られるのは確かである。ブロッコリが制作を担当したのは1995年のピアース・ブロスナン版からだが、バーバラ・ブロッコリ以前・以後と区切って考えるとさらにはっきりした変化がわかるだろう。 

(シリーズを全作鑑賞してみると、個人的にはやはり『ゴールデンアイ』を境に大きく変化しているように思う。ジュディ・デンチに交代したMがボンドの私生活を辛辣に批判するところも含めて、かなり自覚的になったと言えるのではないか。)

 

 話を戻そうと思う。 

 なぜバーバラ・ブロッコリの名前を出したかというと、彼女が作中での現代的な女性描写に注力しているのであれば、自ずと男性キャラクターの描写にも変化があっても不自然ではないと思うからだ。男女平等を目指して進化していくのは女だけではないはずである。ボンド・ガールが進化しているなら、ジェームズ・ボンドだって進化しているのではないか。 

 そして、その進化の最新版がダニエル・クレイグのボンドなのではないだろうか。次作で5作目となるクレイグの6代目「最新版」ボンド(Ver.6.5.)は、これからさらに進化していく次のボンドのために、過去の伝統的なマスキュリニティのイメージを「引退」させるという役割を担っているように見える。バーバラ・ブロッコリによるシリーズのアップデートと、ストーリー上視線の客体となった経験のあるダニエル・クレイグという俳優、そしてそんなクレイグを客体的に映した経験があるサム・メンデスが合わさった結果、『スカイフォール』でボンド的男性性の「終わり」が大きく発露したのではないかと思うのだ。 

 『スカイフォール』は、 ボンドが一度「死ぬ」ところから話が始まる。彼が撃たれて川に落ちると、アデルが「this is the end(これで終わり)」と歌い出す。ボンドは自らの「過去」と対峙し、結果それを大量のダイナマイトで爆破してしまう。なんとも鮮やかな決別だ。こう考えると、私は『スカイフォール』の一連の「終わり」のイメージが、007シリーズにおけるマスキュリニティに別れを告げているように見えるのだ。 

参考

A Family Team Looks for James Bond’s Next Assignment - The New York Times

2020年10月10日閲覧。

A female James Bond? Never, confirms executive producer | James Bond | The Guardian

2020年10月10日閲覧。

 

 

(本稿は2020年3月29日、5月13日にnoteに投稿した記事を加筆・修正したものです)