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ひとり映画感想文集

『ダレン・シャン』を大人になって全巻読み返した考察①

 

はじめに

 私が擬似親子ものに弱いのは絶対にこの小説のせいだ。

 私は1995年生まれである。今の20代後半から30代くらいの人で、学校や図書館で『ダレン・シャン』を借りて読んだという人は多いのではないだろうか。私の場合は6つ年上の姉の本棚から勝手に取って読んでいたのだが、これで10歳にしてものの見事にフィクションの好みが形作られた。

 今回のブログはタイトル通りの内容だ。読み始めたのは2022年の夏で、途中一年半ほどブランクがあり、読了したのは2024年の7月、の予定である。というのも、今12巻のかなり終盤の方を歯を食いしばりながら読んでいて、全部読んでしまうのがなんか嫌でこれを書き始めたからだ。10歳の時に初めて自分から進んで読んだ長編小説を、18年後に原文で再体験する(できるようになっている)とは思いもよらなかった。

 15年ぶりくらいに大人になってから読み返してみると、穏やかに懐かしみながら楽しめるかと思いきやそんなことは全くなかった。全然ない。そもそも本作は穏やかな児童小説ではない。全巻しっかり辛くて苦しい地獄のような展開を全身で再体験し、かつ、あれから20年近く様々なフィクションを通ってきた目で見直すと、見えるのだ。あの時見えなかったいろんなものが。マジで。

 本記事は、読み(返し)始めた当時からTwitterに書き散らしていた感想を掘り起こして、加筆して文章にまとめたものだ。併せてシリーズのスピンオフと言える『クレプスリー伝説』を読んでかなり感慨深い気持ちになったり、作者のダレンさんと思いがけない交流があったりと、自分の人生の中で結構大きなイベントだったので、ここにまとめておこうと思う。もう本当に、感情が大変なことになっているので。

 そもそもなぜ読み始めたのかというと、時間があったからだ。精神的不調から仕事を辞めて休んでいた時期で、とにかく何かに没頭して安定を図ろうとしていたときだった。当時(頻度は落ちたとはいえ今もそうだが)私の心の拠り所になっていたのは『指輪物語』で、(関連)書籍を読んだり映画を観たり、お気に入りの場面のイラストを100枚くらい描くのが生き甲斐だった。2022年の夏は、それがひと段落して、無意識だったが次に没頭するものが欲しいと思っていた時だったのだ。

 最初に開いたのはかつて少年サンデーで連載されていた漫画版だった。ある夜に何かの絵のラフを描いていて、「かっこいいレンガや壁の資料が欲しい」と思ったのだ。そして、デスクのすぐ横にある本棚には新井隆弘先生の単行本が並んでいて、手に取ってしまったのである。*1

 私は趣味や学業でまあまあ英語に触れていて、高校生のときに『ハリー・ポッター』の最初の2冊か3冊を英語で読んだ記憶がある。最も、日本語で擦り切れるほど読んでいたからできたことだ。『ダレン・シャン』のペーパーバックは確か中学生の時に親に買ってもらったのだと思うが、結局通して読むことはせずに10年以上本棚にあった。

 個人の感覚だが、使われている単語や文章は『ハリー・ポッター』よりも単純で、かなり読みやすいと思った。話が進んで見慣れない単語が増えると多少目が滑るが、電子書籍なら単語の簡単な意味もすぐ確認できるのでとても便利だ。おまけに何百回と読んだ話なので、内容が分からなくて詰まることはなかった。

 そういうわけで、前置きは以上である。以下からは1冊ごとに区切って、16〜18年ぶりにこの小説に触れた驚きや発見と、英語ならではの面白かった言い回しなどを自分なりに記録していこうと思う。特に英語に関しては勉強不足で間違ったことを言っている可能性があるかもしれない。見つかったらできるだけ直していきたいが、念の為断りを入れておく。

 以下は『ダレン・シャン』と『クレプスリー伝説』のしっかりしたネタバレを含んでいます(『クレプスリー伝説』については核心には触れないようにしているつもりです)。また本文からの引用は簡単に脚注をつけましたが、小学館のハードカバー版準拠です。

 

I've always been fascinated by spiders (1巻)

↑「ぼくは小さい頃からずっと、クモが好きで好きでたまらなかった」。ペーパーバックを買ってもらった当時、Fascinate(魅了する)が見慣れない単語だったのを覚えている。

 

作られた恐怖と本物の恐怖の境目

 フリークショー、ツギハギの小人、吸血鬼、隠し事、転落死の偽装、生きたままの埋葬などなど。実際に開くまですっかり忘れていたが、いかにも私が好みそうなものしか入っていない。これを読んだからこういうものを好きになったわけで完全に順番が逆なんだけども、もはや誂えたよう、というか、こんなん私専用じゃん……。伊達に人生の一部をティム・バートン映画の考察に捧げて学位を取ったわけではない。奇妙なもの、恐ろしいもの、普通とは違うもの、それが自分のすぐ近くにあるという感覚が私は大好きなのだ。

 シリーズ全体を概観すると、シルク・ド・フリークはダレンの第二の家のような存在になっていくので忘れがちだが、1巻ではダレンが観客として見る目を通して描かれる。ショーの場面はかなりのページを割かれていて、演者一人に対して章が一つ割り当てられているほどだ。この先の巻でそれがいかに演出されていたものだったかがわかる「恐怖」は、この時点のダレンにとっては「かなり真に迫ったショー」でしかない。

 『クレプスリー伝説』を読むと、ミスター・トールがいかにサーカスの運営を楽しんでやっていたかがよく分かってとてもいいんですよね……。ダレンとスティーブが手渡したチケットを食べちゃうという描写があるけど、あれは多分ご本人的にはめちゃめちゃ笑うところだと思ってやってたんだろうな。お茶目だから。

 この「偽物の恐怖」は、シルク・ド・フリークの舞台上を境目にして客席にはやってこない、別世界のもののはずだった。しかし、ダレンはスティーブがまさにそこに立っているところを見てしまうわけである。終演後の舞台の上で、スティーブはミスター・クレプスリーに「俺をバンパイアにしてくれ」と頼む*2

 実際のサイドショーの芸人たちが俳優として出演したトッド・ブラウニングの映画『フリークス』(『怪物團』とも。1932年、アメリカ)に、"One of us!"(俺たちの仲間だ!)という台詞がある。「普通」とは違った姿で生まれた彼らが、五体満足の健康な「普通」の人間を”One of us”と認めたときに登場するフレーズである。「フリークショー」と呼ばれるサーカスがこのシリーズの入り口として登場し、1巻に限った話だが強く線引きされている以上、「あちら側」と「こちら側」のようなものを意識せずにはいられない。ダレンは劇場のバルコニーで、スティーブが「あちら側」の人間だということを目撃してしまうのだ。

 その後も、「あちら側」はじわじわとダレンに近づいてくる。バンパイアの蜘蛛を自分から盗みに行き、全てうまくいったように思えたが、マダム・オクタがスティーブを噛んでしまったことで物事はどんどん悪い方向へ転がり始める。しまいには、ダレンが投げ捨てたマダム・オクタの籠をどこからともなく現れたクレプスリーの腕がキャッチする。「あちら側」が舞台を超えて「こちら側」にやってくる。バンパイアの血を注がれてしまったが最後、ダレンは「死」を経て「あちら側」に飲み込まれてしまうというわけである。

 私はホラー小説にはあまり詳しくないのだが、よくできたホラー小説の展開だと思う。血を注がれてからなんとか人間の生活を送ろうとするが、どうしようもなく身体が変化していく様子や、何よりもそれを周りの誰にも言えずに隠さざるを得ないというくだりはかなり恐ろしい。家族や友人から離れるために転落死を偽装し、「死体」となった視点から語られる終盤は何かの悪い冗談のようだ。*3最後に勘違いからダレンを敵として認識してしまったスティーブが登場し、二人が道を分ったところで1巻が終わる。

 

 怖くなるのが好き

 読み返して改めて印象に残ったのは、「怖くなるのが好き」というダレンの性質である。冒頭で「部屋に放した蜘蛛が自分の体の中に卵を産みつけて、僕を生きたまま食べ出したらどうしよう」と心配していたエピソードが語られるが、この後に続く "I loved being scared when I was a little" (「小さい頃のぼくは、こわいことを考えるのが妙に得意だったんだ」*4)は、この性質を端的に表したフレーズだ。

 面白いのは、この「怖いこと」の中に、たぶんスティーブが含まれているということだ。ダレンとスティーブはモンテッソーリ教育の教室で幼い頃に出会い、それからずっと大の親友だった。「スティーブはどこに行ってもこわがられ、どこに行ってもきらわれ」て、ダレンの母親は「乱暴な性格にひかれたんでしょ」と言う*5。多分そうなのだろう。たぶん、というか明らかに、スティーブは危険なところのある子供で、ダレンはそこに惹かれていたのだ。コミックの中では『スポーン』が好きという通り*6、ダレンはフィクションやエンタメの怖いもの、恐ろしくて危険なものが好きな子供で、スティーブはそのインモラルさへの憧れの象徴のような存在だったのではないだろうか。

 

 あの日あの時(『クレプスリー伝説』の話)

 さて、私は原書で読み返すと同時に1冊だけ読んだままだった『クレプスリー伝説』の存在を思い出し、並行して少しずつ読もうとしたのだが、一度読み出したら本当に止めることができなくなり、続きを買って届くまでの時間も含めて四日で全部読んでしまった。感想としては「あだな『水銀』(クイックシルバー)……? ふ〜〜〜ん……へ〜〜……そう……」「それ弟子に話した?」「全巻ラッピングして弟子にプレゼントしたい」「ちょっと待ってここまでやって一房の理由書いてないの?」みたいな感じなんですが、本編で描かれなかったバンパイアの文化慣習、彼らが人間やその歴史とどう関わって付き合ってきたのかなどが描かれていて大変、本当に面白かったです。マジでなんでオレンジの理由が分かって一房の理由がわからないままなんだ。

 『クレプスリー伝説』は、200年近くあるクレプスリーの半生を追ったスピンオフ作品だが、『ダレン・シャン』の1巻に直結するような終わり方になっている。つまり、ダレンとスティーブがシルク・ド・フリークに行ったあの日、スティーブが終演後にもう一度劇場に行き、後をつけたダレンがバルコニーで息を潜めていると、ステージの上から飛び降りてきたあの時だ。

 このままではどんどんこの記事が長くなってしまうので書くのを躊躇しているのだが、しかしクレプスリーのために書いておきたい。1巻のクレプスリーはかなり不気味だ。人間の子供がバンパイアの大人を見たらまあそう見えるだろうが、後々責められて本人も自覚しているように、子供を巻き込むというのはどう考えても言い逃れができない理不尽な行為だ(私は9巻の展開はその代償だと思っている)。そして、同族から言われている通り「クレプスリーらしくない」。彼のことを知れば知るほど、奇妙なことに初めて描かれる「子供をバンパイアにする」というエピソードが彼らしくないことが浮き彫りになっていく。

 このことは作中で特に謎として触れられることはないが、シリーズも大詰めになった頃にミスター・タイニーが裏で糸を引いていたからだということがわかる。つまり、ダレンがサーカスのチケットを掴むときに「今だ!」という(運命の)声が聞こえたような瞬間が、他のキャラクターにもあったということだ。『クレプスリー伝説』は、はっきりと語られはしないものの、彼の人生がいかにミスター・タイニーの影響下にあったかがわかる語り口になっている。

 これはこの話を聞いた私のパートナーが的確に例えた言葉なのだが、ミスター・タイニーは、「魔がさした」の「魔」なのである。どんな人でもふと「魔が」さして、悪い方向に舵を切って後悔することがある。その舵に糸がくくりつけてあって、後ろで誰かが引いていたとしたら? スピンオフも含めて、『ダレン・シャン』はそういう話だと私は思っている。

 クレプスリーはダレンが憧れていた「インモラルな子供」であるスティーブとある意味で対を成している「バンパイアの理性的な大人」だ。クレプスリーは少年時代にシーバー・ナイルと出会い、青年になって彼から血を分けられる。ある時、10代のラーテンにミスター・トールがなぜバンパイアになりたいのか尋ねるが、そのときに言う台詞は「わからないよ。とにかく、そうしなきゃいけないんだ」*7。舞台の上でスティーブが言ったのとほとんど同じことなのだ。たぶん、クレプスリーの人生にはこの時と同じように、「然るべき理由はわからないが強烈な衝動に駆られる」という瞬間がいくつかあって、ダレンに血を注いだ時もそのうちの一つだったのだろう*8

 

「エースのシャン様」=Hot shot Shan

 本当は1記事で12冊分振り返るつもりでした(過去形)。全然ダメなので一旦切ろうと思います。全然ダメだったな……。次からはこれほどは話すことはない(と思う)(多分)ので、2〜3冊分まとめて書ければ……いいかも……。

 1巻の原書で邦訳と比較して一番面白いのは、「エースのシャン様」=Hot shot Shan

で間違い無いと思う。「熱い」ではなくて「魅力的」とか「セクシー」みたいな方の”Hot”。響きもなんだか韻が踏まれているようで面白い。

 あと、この先を読み進めて段々分かったことだが、クレプスリーの喋り方はたぶんアポストロフィーによる省略がない(I'm=I am, we'll=we will  などを略さずにちゃんと言っている。シーバーも同じ)というところと、単語の選び方が妙に古かったり堅かったりするところに根ざしているのだと思う。文法を含めた言葉の使い方がもっとよく理解できればさらに細かく違いがわかるのかもしれないが、なんとなく読んでいるだけでも「この人はちょっと古い喋り方をしているな」というのがわかる、という感じ。

 それでも、一人称は"I"だ。訳者の橋本恵さんの「我が輩」はやっぱり名訳だと思う。

 

 

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*1:単行本を読んでいた人なら覚えているかもしれないが、作画の新井先生は幼い頃スコットランドに住んでいたことがあったそうで(コミックス3巻のおまけページ参照)、その頃の写真をモデルにしたらしいダレンの生家はもちろん、ヨーロッパ風の街並みの作画がとにかく素晴らしいのである。

*2:クレプスリーの名前の表記は、原書では基本的に"Mr. Crepsley"と「ミスター」がついていて、英語圏のファンダムではこの呼ばれ方が主である。邦訳も最初の1〜2冊はそうだったが、日本語では「クレプスリー」が定着している。

*3:エドガー・アラン・ポーへの目配せというか、リファレンスはそこかしこにあるかもしれない。生きたままの埋葬は『黒猫』、あと『告げ口心臓』とか?

*4:ダレン・シャンダレン・シャン 奇怪なサーカス』橋本恵訳、小学館、2001年、9頁。

*5:同上、13頁。

*6:同上、40頁。

*7:ダレン・シャン『クレプスリー伝説1 殺人者の誕生』橋本恵訳、小学館、2011年、133頁。ミスター・トールはこの答えを聞いて、この先に起こることがある程度分かったようである。

*8:ダレン・シャンダレン・シャン バンパイア・マウンテン』橋本恵訳、小学館、2002年、231頁。かなりはっきりと台詞になっている。