お足元が悪い中

ひとり映画感想文集

『ダレン・シャン』を大人になって全巻読み返した考察④

前回の記事↓

 

kemushimushi.hatenablog.com

続きです。

今回は7〜9巻の黄昏〜夜明けの3冊の話をする予定なんですが、9巻でどれだけ内容を持っていかれるかわからないので、最悪9巻だけ独立した記事になるかもしれません。トラウマ、一緒に乗り越えていこうぜ。今回も目標は一万字弱だゾ!

 

It was an age of tragic mistakes.(7巻)

 ↑序章の書き出し。「この世には、ひさんなあやまちがたくさんある」*1と訳されているが、"age"と書かれている辺り戦争をやっていることそのものを"tragic mistakes"と言っているような印象を受ける。

 ちなみにこの書き出しは7〜9巻を通して同じ"It was an age of~"で始まっており、8巻は"war"(戦争)、9巻は"deceit"(裏切り)だ。邦訳では「この世には〜」の書き出しがこれにあたる。

 

 3巻→4巻の間に6年の月日が流れたように、今回もまた前回の6年後からスタートする。バンパイア・マウンテンへ行ったのがおおよそ20歳前後とすると、ダレンは20代半ばくらいになっているはずだ。前回、元帥になる手続きとして現職の元帥たちの血を取り込んだ影響で身体の方も一気に成長するのだが、冒頭の時点ではまだ子供と呼べる見た目である。

 この6年はただの6年ではなく、ダレンが元帥として一族の中で戦争の指揮をとってきた6年でもある。前巻では戦争に加担することにかなりの葛藤を抱えていたが、それなりの折り合いをつけたのか、力量の試練を受け直し、戦いの訓練も受けて、元帥の間で部下の報告を聞いては指示を出す、仕事に追われる日々を送っている。

 

バンパイア社会の階級と言葉遣い

 ところで、「バンパイア元帥」の原書の表記は"Vampire Prince"だ。プリンス……? 調べた限り、"Prince"の意味はよく知られている「王子、皇太子」で「元帥」にあたる意味はない。「元帥」は英訳すると"Marshal"(陸軍・空軍の場合)にあたるようである。私は軍の階級に詳しくないのでひょっとしたら何かの文脈を見落としているかもしれないが、多分"Prince"とはバンパイア社会特有の称号なのだろう。

 "Prince"の下は"General"、バンパイア将軍だ。直訳すると「大将」で、人間の軍隊で考えると相当高い地位になってしまうが、本文の語り口からすると将軍の中にも細かい階級分けがあるか、少なくとも上下の関係があるらしい。例えば、クレプスリーの弟弟子だったウェスターは元帥の間の衛兵をやっていたが、バンパイア社会では衛兵になれるのは一握りのエリートだそうだ*2

 元帥はその中のトップオブトップで、一族全体に関わる問題の決断をする人たちである。20代半ばのダレンがそこにいるのは、新卒数年目で役員会議に放り込まれるみたいな感じだろう。しかも仕事は戦争の指揮だ。クレプスリーが後方腕組み父親面でバックアップしているとはいえ、大変な環境だ。

 ちなみに、原文で元帥たちはおおよその場合名前ではなく敬称だけで呼ばれる。つまり、「ミッカー元帥」="Prince Mika"ではなく、元帥に向けた会話文の語尾に"Sire"がつくということだ。"Sire"とは"Sir"のより大仰な、古めかしい言い方で、邦訳で「〜でしょう、閣下」などと書かれる時の「閣下」がこれにあたる。

 "Sire"だけではなく、バンパイアは古くてちょっと荒っぽい言葉を使うのが慣わしなのかもしれない。たとえばクレプスリーは時折"Aye!"と言うことがあるのだが、これは、なんだろう、船乗りが映画とかでよく言うアイアイキャプテンのアイってこれだと思うんだけど、イギリスの国会で「賛成!」と言う時に"Aye!"と言ったりする。要は威勢のいい"Yes"で、反対語は"Nay"だ。普段堅苦しい喋り方をしているクレプスリーからこれが出てくると私はものすごいときめきを覚えてしまう。良すぎる……。

 

「荒野のレディ」と女性バンパイア

 さて、そんなバンパイア・マウンテンに突然ミスター・タイニーがやってくる。バンパニーズ大王が出現し、ついに血を注がれて半バンパニーズになったと言うのだ。完全なバンパニーズになる前に大王を仕留められれば、戦争はバンパイア側の勝ちとなる。ただし大王を直接手にかけられる権利を持つのは選ばれた三人にしかなく、そのうち二人はダレンとクレプスリーである。自分の前世を探るために二人に着いていくことにしたハーキャットを加えて、三人は6年ぶりにバンパイア・マウンテンを離れることになる。

 7巻は比較的辛い展開が少ない巻だ。三人目の大王ハンターのバンチャ元帥とレディ・エバンナなどの新しいキャラクターや、なんといってもすっかり大人になったエブラも登場する。30歳手前くらいになったダレンとエブラが昔を振り返って「大人になってしまった」と感慨に浸る場面があるが、ここは当時の作者が同じくらいの年齢だったと考えると、かなり実感を持って書かれた場面だったのかもしれない。

 すごくどうでもいい話なんですが、私はいつもエバンナの台詞が夏木マリの声で再生されます。

 

 私はレディ・エバンナもけっこう好きなキャラクターだ。他人の目に左右されず自分が心地いいと思う見た目を選択して、一人で居心地の良い洞穴に住んでいて、様々な魔法が使え、趣味でカエルを育てている。もちろん、こうして書くほどエバンナの人生は気楽なものではない。自分の見た目を好きに変えられて立派な髭を生やしたりしている両生的なところがあるエバンナも、将来的にバンパイアかバンパニーズどちらかの子供を「産む」という役割を背負わされている。

 この世界のバンパイアは子供を持つことができない。掟の話ではなくて、子供を持つ身体の機能がないということだ。これは、本作のテーマの一つである、バンパイアの社会学的な解釈の結果の設定なのだろう。

 女性のバンパイアは滅多にいない、なぜならバンパイアは子供を持つことができないから、というのがこの世界の通説だ。私は、実は一族の大多数である男性に認知されていないだけで、女性のバンパイアは想定されている数よりも多いのではないかと想像している。子供を持つことができないからというのは……理由にならなくないか……? 子供を産む必要もなく、男性の力もなしに、男性が作り上げた社会と関わることなく一人で生きられるというのは、現代もそうだと思うが特に20世紀以前のそうしたいと思っている人にはかなり魅力的に映ると思う。

 クレプスリーとかつてパートナー関係にあったエラ・セイルズは、元々はエバンナの召使いとして生活していた。召使いが性に合っておらず、クレプスリーが訪ねてきたことがきっかけでバンパイアの生き方が自分に合っていると思ったのだそうだ*3。エラがなぜエバンナのところにいたのかは語られていないが、この当時が19世紀の半ばだとして、当時求められていた女性の生き方とエラの相性が良かったとは考えにくい。かといって一人で静かに生きる魔女も違ったのだろう。競争的な性格のエラには確かにバンパイアの世界が合っている。

 だから彼女は一族の中で生きることを選択したわけで、『クレプスリー伝説』で言及されていることだが、一族と一切関わらずに生きているバンパイアは大勢いるそうだ。女性かもしれないし、私のようなノンバイナリーかもしれないが、男性を中心にしたバンパイア社会のプライドやしがらみとは全く関係なしに、何百年も世界中を旅して気ままに生きている、そういうバンパイアがひょっとしたらいるかもしれない。いたらいいなと思う。いたらそれは、かなり希望だ。

 

 私が原書での読み返しを始めたのは2022年の夏なのだが、一気に7巻まで読んでここでピタッと止まってしまった。理由は上記の通りで、この先一歩でも進んだらクレプスリー死ぬまで止まれなくて大怪我する自信があったから……心の準備ができなくて……2年経ってようやく続きを読む気になったので、この辺りからはつい最近に読み返した箇所になる。このブログを書くにあたって1〜6巻もざっくりと復習しているが、英語で読んで受け取れる情報の量がこの2年で増えたのか、特に6巻は初読のような巨大感情を持ちながら読んでしまった。

 ちなみに読む手が止まりかけた当時は絵を描く方の手を動かしていて、ファンアートを久しぶりにたくさん描いた。その時の話も記事にしてあるので、よかったらどうぞ。

 

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One for all, all for one(8巻)

↑「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」。『三銃士』の有名な台詞で、デビーの愛読書の一節として登場する。3巻でこの話が初めて出てきた時にダレンが「映画なら8回は観た」と言っていて、気になって調べてみたのだが、時代を考えるとおそらく1973年リチャード・レスター監督の『三銃士』ではないかと思う。未見なのでいつか観てみたいところだ。

 8巻では舞台が人間の街に戻る。前回、バンパニーズ大王を仕留める機会を無駄にしてしまった一行は一度別れて、バンチャ元帥は近況の報告にバンパイア・マウンテンへ、ダレンたち三人はクレプスリーの故郷の街に再びやってくる。そこではかつてのように血を抜かれた死体が多数発見されており、バンパニーズの一団が潜んでいると思われたからだ。

 

クレプスリーの故郷はどこなのか?

 私は以前からクレプスリーって一体どこの国の人なんだろうとかなり気になっていたのだが、『クレプスリー伝説』を読む限りおそらくイングランドもしくはスコットランドのどこからしい。そもそも「ラーテン・クレプスリー」という名前の響きが、どの辺りの人なのか想像しにくい。ネイティブとかならこの辺想像がつくものなんだろうか?

 『クレプスリー伝説』には、18世紀末生まれのクレプスリーが製糸工場で働かされていたとある。しかも、蚕の繭を煮る係ということは絹だ。この時代に絹織物の工場と聞くと、思い出すのは世界史の三角貿易だ。ひょっとしたらフランスもありえるかもと思ったが、1800年のフランスにいて革命の話が出てこないのはちょっと不自然かもしれない。意地悪な工場長トラズを殺してしまった後に路地裏で小さな女の子が言う台詞「ママはね、おさとうの入ったお茶を入れてくれるの」*4からしても、おそらくイギリスのどこかなのだろう。

 11巻では、自分の故郷に戻ったダレンがクレプスリーの街で指名手配となったニュースが流れてきていないか調べる場面がある。ここではクレプスリーの故郷が「外国」*5と書かれているが、これは(作者のダレンさんと同じようにキャラクターの)ダレンがアイルランド出身だとしたら説明がつくのではないだろうか。となると、クレプスリーの故郷はイングランドスコットランドのどこかということになる。18世紀末の絹産業事情を詳しく調べればもう少し絞れそうだが、特に本編の場合は具体的な地名などが想定されているわけではなさそうなので、特定は難しそうだ。

 

真夜中の同志たち

 8巻の主な展開といえば、何者かが仕組んだことによってダレンが学校に通わざるを得なくなること、大人になったデビーと再会し、スティーブと再会し、R.V.が再登場し、そして案の定スティーブが裏切ることなどだ。再登場するキャラクターのラインナップ的にも、7〜9巻は1〜3巻と対になったような3冊なのがわかる。

 特に8巻と9巻は人間の世界をバンパイアたちが飛び回るという図が面白い。映画なんかにしたらこの2冊は相当面白くなるだろう。2巻と3巻も二つの世界が混ざり合う話だが、それ以上にダレンが精神的にこの二つの狭間にいるということが大きなテーマだった。今回はその葛藤が無い分、9巻のフィナーレに向かって重ねられる展開に集中できているような印象を受ける。

 再登場する3人はみんなかつてダレンの友人で、「どちらの側」にいるのか不明だったところがこの巻を通して敵と味方にはっきりと分かれることになる。ダレンを学校に行くよう仕組んだ張本人のスティーブが「まともに育ちましたよ」みたいな顔をして出てくるのは正直かなり面白い。スティーブはここからいかに捻くれて育ってしまったかがどんどん明らかになっていくが、知れば知るほど複雑で面白いキャラクターだと思う。本性を隠してダレンと再会した時はそれなりに楽しかったのだろうが、それと「こいつを殺して復讐を遂げたい」という気持ちは彼の中では両立するものなのだろう。

 私のこの巻のお気に入りは、ダレンとハーキャットがいかに近しい関係になっているかが容易にわかることだ。あんなに戻りたいと言っていた人間の世界にもはやダレンの居場所はないが、拠点としているホテルに帰るといるのはハーキャットで、たぶん日中寝ているクレプスリーよりも一緒にいる時間は長いのだろう。この二人の関係がこの辺りで重要視されることはあまりないが、クレプスリーがいなくなる9巻以降は特に大事になってくる。7巻でダレンが二日酔いになるのを見越して対策をシーバーに聞きに行くとか、11巻で不眠不休で病室の警備をしたりだとか、ハーキャットのこういうサポート能力は結構すごいものがあると思う。発揮されるのは対ダレンだけなのかもしれないが。

 

ハースト兄弟

 話が前後するが、ダレンを含めて全部で五人いる元帥のうち、バンチャ元帥は大王ハンターの一人として登場する。バンチャはバンパイアの中でもいわゆる極端な伝統主義者で、火を通したものは口にしない、自分で作った服しか着ない、戦う時は基本的には素手、武器はお手製の手裏剣のみという生き方にこだわっている。厳格な一面はあるが親しみやすい陽気な人で、歳はおそらくクレプスリーよりも100歳ほど上だ*6。17世紀末から18世紀初め生まれということになる。

 バンチャに"burly, gruff and ruff"(「がっしりとした体格で、がさつで、むさくるしい」)というイメージがある一方、バンパニーズ大王の側近として登場する弟(どちらが年上なのかは正確には不明らしい)のガネンは"slim, cultured and smooth"(「やせていて、品があり、身なりがととのっている」)*7と描写されている。これは、バンチャのイメージがバンパイアの代表的なものなのだとしたら、ガネンのこのイメージはバンパニーズのそれということになるのだろうか?

 そう考えていて思ったが、バンパニーズの目立ったキャラクターには洒落者というか、スマートな印象の人が多い、ような気がする。そもそも名前が出ているバンパニーズのキャラクターがかなり少ないが、例えば、初めて登場したバンパニーズのマーロックの出立は特注で作った真っ白なスーツというものだった。バンパイアとバンパニーズの違いは作中で何度も語られるが、それは「人の血を必ず飲み干す」「名誉や尊厳に厳しい」など主に一族の中のルールについての部分だ。ひょっとしたらそれ以外の部分、「バンパイアは体格も威勢もいい、豪快で野生的な男ばかり」みたいな共通の人間的な雰囲気の部分、平たくいうとノリとか社風(?)みたいなものも、バンパニーズはけっこう違うのかもしれない。そしてガネンは、バンチャがバンパイア的な雰囲気の極端なものであるのと同じように、バンパニーズ的な洗練のされ方の極端な例なのかも……などど想像できる。

 

By the end of the coming night, death may seem a blessing.(9巻)

 ↑「夜が明けるころには、死んだほうがましだと思っとるかもしれんぞ」*8。なんてことを……言わせてるんだ……!

 さて、いよいよ9巻である。ここでショックを受けてリタイアした子供は何万人いるんだろうな……。踏ん張って10巻の最初の数章まで行ければなんとかなると思うのだが、当時邦訳は3〜4ヶ月ごとの刊行だったし図書館に入るには時間がかかっただろうから、読むのをやめてしまった人も多いと思う。私も終盤は歯を食いしばりながら読みました。

 ダレンたちがスティーブを人質に取った代わりにR.V.がデビーを捕えたことで、皮肉にもスティーブの命はある程度保証されることになる。クレプスリーが足に怪我をしてしまい、下水路を追われ地上に出たバンパイアたちは二手に別れざるを得なくなる。バンチャを除いた三人とスティーブは(人質として)警察に投降し、混乱に乗じて脱出をする。真夜中までに地下水路でバンチャと合流し、バンパニーズ大王と戦わなければならない。

 

 9巻はクレプスリーが一番魅力的に描かれている巻でもあると思う。ダレンが元帥になってからこの師弟の関係は時とともにある程度変わっていったと思うのだが、それが一番濃く描かれているのがこの巻だ。作者の方のダレンさんは実に様々な方法でいろんなキャラクターを死なせてきたけども、このクレプスリーの死に方はひときわ気合いが入っているというか、愛着のあるキャラクターだったんだろうというのが伝わってくる。

 警察署から脱出した三人は昼間の街をあちこち飛び回る。ダレンがクレプスリーに日焼け止めを買おうとしたことが原因で三人は暴徒に追われることになるのだが、この辺のクレプスリーは本当に生命力があるというか、カリスマティックというか、輝いてるな〜と何回読んでも思う。クレプスリーがこの巻で死ぬことはかなり前から決まっていたそうなのだが、そこに合わせて魅力を出し切ろうみたいな、花を持たせようみたいな作者のダレンさんの意識が見える気がする。

 

「生まれながらの悪」

 三人はダレンの同級生のリチャードに助けを求めようとするが、理解を得ることができなかった。リチャードの家から引き上げて、陽が落ちるまでの間廃倉庫で交わされる善悪についての会話はかなり興味深い。ダレンが「あいつ、なんであそこまで、凶暴になっちまったんだろう?」*9と漏らすと、クレプスリーは「スティーブは生まれながらの悪で、成長するにつれてそれが表出した」という趣旨のことを言う。

 クレプスリーは、「生まれながらの悪は存在する」という立場だ。大多数は成長するに従って自分の意思で善悪を選択できるが、その余地もないような生来の悪人というのは存在し、選択肢のあるその他大勢を試すような存在である。そういう意味ではスティーブの性質を責められないが、この種の悪人は憎むでも憐れむでもなく、ひたすらに恐れて、こちらがやられる前にやるしかない。これがクレプスリーの考え方だ*10。とてもプラクティカルというか、過去に様々な戦争や殺人に巻き込まれた経験から言っているのかなと想像できる。

 対してハーキャットは「どんな人間も二つの面を持っていて、善悪を選択できる」「できるはずだ」というような感じだ。邦訳ではここは「そうでないと、こまる」*11と訳されているが、原文では"It has to be"と強調されている。この考え方はハーキャットの前世のことを考えると納得がいく。ダレンは「じゃあ、スティーブを憎むのは、まちがってるわけだね。スティーブは、あわれなやつってわけだ」*12と言っているが、これはどちらかというと彼がそう思いたいということなのだろう。夜が明ける頃にはそうとはとても思えなくなってしまうというわけだ。

 「生来の悪は存在するのか」という話題は、このあと出版される『ロード・ロス』から始まる『デモナータ』シリーズに通ずるものがある。〈デモナータ〉と呼ばれる魔界とそこに住む悪魔たちとの戦いを描いたファンタジーで、私は最近になって邦訳を最後まで読んだのだが、一巻のタイトルにもなっている悪魔のロード・ロスはまさに人間の倫理観や善性を引っ掻き回し試すようなキャラクターだ。最後まで読むとかなり大事にされているキャラクターなのがわかる、というか、作者の「悪に生まれついた生き物」への眼差しが垣間見えるような存在であることがわかる。

未邦訳シリーズ"ZOM-B"

 このテーマは長いこと掘り下げられていて、『デモナータ』はもちろんのこと、その後に書かれたゾンビもののシリーズ"ZOM-B"ではもっと真に迫った形で悪についての話が繰り広げられているようだ。このシリーズは未邦訳で、私はつい最近電子書籍で一巻を買って最初の10章ほどを頑張って読んでみた。白人至上主義者の父親を持つ主人公の少年「B ・スミス」が「自分も父と同じなのではないか/そうなったらどうしよう」と悩み恐れる様子(父親のようにオープンでないとはいえ、実際この時点のBスミスはそうなのだが)や、それを引き起こす状況の「嫌さ」がかなり克明に描かれている。この裏で、それまで遠い地のニュースだったゾンビの存在の現実味が徐々に増してくるという進行で、この辺は『ロード・ロス』の冒頭の雰囲気に近い。

 主人公が「自分は「悪」になるのではないか」と不安に苛まれるくだりは『ダレン・シャン』にも『デモナータ』にもあったが、"ZOM-B"の首をじわじわと絞められるような積み重ね方はそれまでのものよりも洗練されていると思った。何かの機会で邦訳されたり、映像化されることがあればいいのだが、残念ながらその辺の話は無いようだ。忘備録も兼ねていつかこのブログにレビューを書けたらいいな。

 

Caven of Ritribution -「復讐の間」からみるスティーブ・レパード

 スティーブが長年地道に計画し実現させたらしい「復讐の間」だが、よく考えると実にスティーブらしいやり方だ。高さが十数メートルもある巨大な空間や銀のシャンデリア(シャンデリア、しかも銀というのは間違いなくスティーブの趣味だろう)、ましてやダイヤル式のドアなんかを作るのは、理由はともあれ一大建築プロジェクトだったはずだ。しかし、バンパニーズは、バンパイア・マウンテンのような拠点や、元帥や将軍のような組織とリーダーを持たない一族である。共同作業で巨大な地下室を作るようなネットワークやノウハウはないはずだ。となると、(知られていないだけでバンパニーズ建築が存在しない限り)これは主にスティーブが集め始めた人間の協力者であるパンペットたちによるものなのだろう。憶測だが、バンペットたちの中に建設関係者が一定数いて、この規模のものを作れるぐらい組織として機能していたのではないか。

 つまりスティーブは、大王になるや否やバンパニーズ的な振る舞いとは真逆のやり方でダレンを陥れにかかっているのである。スティーブから"My fariy godfather"と呼ばれているお守り役のガネンの心労たるや半端ではなかっただろう。元帥になったダレンがバンパイアのやり方を必死に身体に覚え込ませていることを考えると、皮肉なことだ。

 スティーブは舞台を作るのが好きだ。この後11巻でも12巻でも彼は懲りずに様々な舞台セットを作ってはダレンを迎え撃とうとする。派手好きというほかに、スティーブが舞台を作りたがることには「邪魔をされたくない」という意識があるように見える。スティーブはバンパニーズ大王だが、バンパニーズ一族のために戦っているわけではないのは明らかだ。復讐心と憎しみで得たダレン(やクレプスリー)との繋がりを断ち切らないために、周囲にそれを邪魔させまいとしているのだと思う。「復讐の間」の頭上はるか高くに上げられたステージで戦うことを指定されたのが最初はダレンだったことからも、隔離された空間を作りたいらしいことがわかる。

 裏を返せば、舞台に上がらない限りは何が起ころうと成す術がなく、見ることしかできないということだ。9巻の終盤のやるせなさは、ステージ上のクレプスリーが戦って落ちていく様子をダレンはただ見ることしかできないという状況から来ているように思う。

 

"I want to live, fight, love, die."

 この記事を書くにあたって作者のダレンさんのブログを大いに参考にさせて貰っているのだが、先日あちこち巡回していたら出版した本1冊ずつにAuthor notes(著者による覚書)が付けられているページを見つけた。これは9巻のページである。

darrenshan.com

 発売当時の売れ行きや、"May the luck of the vampires be with you"(邦訳では「バンパイアの神々が微笑んでくれるよう祈ろう」的な台詞)的言い回しを『スター・ウォーズ』の「フォースと共にあれ」(May the force be with you)と重ねる人もいたとか、100ページくらい書いた後にPCがクラッシュしてほぼ二回書いたとか、そんな裏話とともに主に後半にクレプスリーの死についての記述がある。

 クレプスリーがここで死ぬことはかなり前から決まっていたことで、2冊目か3冊目を執筆している頃にはもうその悲しさは受け入れていたのだそうだ。ただ、19章のダレンの妄想の場面だけは、入れるか入れまいか編集するたびに迷ったという。最終的には入れることになったわけだが、後になって読み返してこの場面になるたびに、やっぱり残すべきだった(残してよかった)と思うそうだ。理由は、彼が本当に死んだという事実を突きつけられる、後々奇跡的な復活はないとわかるから。

 これは言われてみればそう、というか、確かに本編を読んでいて再登場を考えたことは記憶の限り一度もない。何より、10巻の冒頭でダレンがきちんと喪失に対するケアを受けるということが大きいだろう。この展開で読者が受ける傷は計り知れないものだが、クレプスリーの左頬のように、傷は癒えて痕になり、自分の一部になるものなのだ。

 "I want to live, fight, love, die"は、『クレプスリー伝説』からの引用である。「吾が輩は生きて、戦って、愛して、死にたい」*13。将軍になるための訓練を受けていたが、バンパイア・マウンテンを離れることにした60代から70代くらいの時の言葉だ。主人公ラーテンは喜怒哀楽の激しい、迷いや悩みの多いキャラクターとして描かれている。不思議なことに、ダレンが大人になってある程度の距離ができることで、クレプスリーはこのイメージに近づいていくような気がする。逆にいうと、『クレプスリー伝説』の主人公としての造形はこの9巻がスタート地点になっているのかもしれない。警察署から逃げる場面で「「冷静沈着」という言葉は、クレプスリーのためにあると言ってもいい」*14と書かれているが、たぶん歳を取るにつれて顔に出なくなっただけで、クレプスリーはとても感情的な、生き生きとした人だ。これはそれをよく表した台詞だと思う。

 

 

 

*1:ダレン・シャン『黄昏のハンター』橋本恵訳、小学館、2003年、8頁。

*2:ダレン・シャン『クレプスリー伝説4 運命の兄弟』橋本恵訳、小学館、2012年、135頁。

*3:ダレン・シャン『クレプスリー伝説3 呪われた宮殿』橋本恵訳、小学館、2011年、153頁。

*4:ダレン・シャン『クレプスリー伝説1 殺人者の誕生』橋本恵訳、小学館、2011年、55頁。

*5:ダレン・シャン『闇の帝王』橋本恵訳、小学館、2004年、42頁。

*6:ダレン・シャン『黄昏のハンター』橋本恵訳、小学館、2003年、130頁。クレプスリーは3巻で180〜190歳の間ぐらいと記載がある。

*7:ダレン・シャン『真夜中の同志』橋本恵訳、小学館、2003年、268頁。

*8:ダレン・シャン『夜明けの覇者』橋本恵訳、小学館、2003年、105頁。

*9:ダレン・シャン『夜明けの覇者』146頁。

*10:この「選択肢のあるその他大勢を試すような存在」というのがあながち間違いではないと、読者は11巻の終盤に知ることになる。

*11:同上、146頁。

*12:同上、147。

*13:ダレン・シャン『死の航海』橋本恵訳、小学館、2011年、147頁。

*14:ダレン・シャン『夜明けの覇者』106頁。