お足元が悪い中

ひとり映画感想文集

『ダレン・シャン』を大人になって全巻読み返した話③

前回の記事↓

 

kemushimushi.hatenablog.com

続きです。今回は4〜6の「マウンテン」三部作の話をします。一気に登場人物が多くなるのと、あとカーダの話もしなきゃなので、たぶんちょっと長くなります。また、この3冊はかなり一つづりという感じが強いので、一応一冊ごとに分けてはいますが、話が多少前後しています。目標は一万字弱だゾ!およそ14,000字になりました。どうか暇な時に読んでください。

以下は『ダレン・シャン』本編と『クレプスリー伝説』のネタバレを含みます。

 

 

The night of Vampaneze Lord is at hand(4巻)

↑「間もなく、バンパニーズ大王の夜が来る」。

 4巻『バンパイア・マウンテン』は、前作から6年の月日が流れている。ダレンが半バンパイアになったのがティーンエージャーに差し掛かった頃と仮定すると、およそ20歳ぐらいにはなっている計算だ。同年代の友達であるエブラはダレンよりも2〜3歳年上ということなので、20代前半。大学生の先輩後輩という感じかな。といってもダレンの見た目はまだ中学生ぐらいなので、エブラとは以前のような付き合いはできなくなってしまったと書かれている*1

 ダレンはしきりに「普通に歳を取りたい」と言っているが、この「心の成長が体の成長に追いつかない(またはその逆)」というのは、多くの子どもが体験することでもあると思う。例えば、『スパイダーマン』で蜘蛛の能力を得たピータ・パーカーが体の変化に戸惑う様子を、メイおばさんやベンおじさんは第二次性徴と勘違いするというのは繰り返し映画で描かれてきたが、それと同じような重ね方なのだろう。

 バンパイアたちの砦で開かれる12年に一度の集会に出席するため、ダレンとクレプスリーはシルク・ド・フリークを離れることになる(どうでもいいんだが、クレプスリーは旅のスケジュールとか今後の予定をちゃんと早めにダレンに報連相したほうがいい)。この道中は雪や寒さとの戦いでとても厳しいものなのだが、ガブナーや狼たちも交えた旅の描写はとても穏やかで微笑ましい。クレプスリーにとっては、息子に近い存在二人と旅をした最初で最後の機会だったのかもしれない。

 

リトル・ピープルと『フランケンシュタイン

 さて、この巻からは登場人物が一気に増える。そのほとんどがバンパイアだが、その前にハーキャットを忘れてはいけないだろう。 

 ミスター・タイニーが連れて歩いている青いローブの「小人」たちは、長らく謎の存在だったが、バンパイア・マウンテンへの道中で熊に襲われたダレンを一人のリトル・ピープルが助けたことで多くが明らかになった。リトル・ピープルたちは、一度死んで地上を彷徨っていた魂をタイニーが捕まえて新しい肉体を与え、一定期間彼に仕えたら自由の身になるという契約に縛られた状態にある。契約の内容は各々で違い、ハーキャットの場合は自分が死ぬ前はどんな人物だったかを全く覚えていない。

 私はこのキャラクターがかなり好きで、子供の頃に読んだ時からもそうだったが読み返してさらに好きになった。ハーキャットはこの巻で初めて言葉を喋るのだが(これよりも前に言葉を話した事があるのかは謎である)、はじめはかなり片言だ。しかしハーキャットの口数はこのあとどんどん増えていき、シリーズの後半ではダレンの親友となり、かなり図太い独特な人である事がわかってくる。いつもふざけてるわけじゃないんだけどたまにホームランを出すタイプの面白い人というか、巻を追うごとに言動が太々しくなっていくのがすごくいい。クレプスリーを抜きにしたら、ダレンに一番近い存在は間違いなくハーキャットだろう。

 

 タイニーがリトル・ピープルを実際に作る場面が最終巻に出てくるが、彼らの「ツギハギに縫われた灰色の肌」とは怪我などでできたものではなく、文字通りの縫い合わされた痕である。こうして見てみると、思い当たるのは「フランケンシュタイン」だ。リトル・ピープルたちは「創造物」のような存在であり、タイニーはその「創造者」という具合か。「フランケンシュタインの怪物」は映画やメディアの影響で知能の低いロボットのような怪物だと思われている節があるが、メアリー・シェリーの原作『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』の「怪物(The Creature)」は、人間らしい心と高い知性を持ち合わせ、世界を旅することでどんどんそれを成長させていく非常に賢い存在だ。自我を持たないと思われていたリトル・ピープルが、(少なくともハーキャットは)言葉を話し、考え、心を持った複雑な存在だと明らかになるのは、ここになぞらえた設定なのかもしれない。

 そして、10〜12巻、特に最終巻ではダレンもある意味ではタイニーの「創造物」だった事がわかり、実際タイニーの手によって身体を再構成されるわけだが、この終盤にある「創造者の手に支配されたくない」という、「創造物の意思のエネルギー」とでも呼ぶべきものは凄まじいものがある。リトル・ピープルの設定や概念は初めてここで登場するが、本筋の中核をなしている重要な部分だと思う。

 

リトル・ピープルは「ジェンダーレス」

 もう一つ、ハーキャットもしくはリトル・ピープルに関して書いておかなければならない事がある。それは、「リトル・ピープルには男女の区別がない」とはっきり書かれていることだ。

He didn't even know if he'd been a man or a woman! The Little people were genderless, witch meant they were neither male nor female.

   "So how do we refer to you?" Gavner asked. "He? She? It?"

   "He will do...fine" Harkat said. *2

 ここと同じ部分の訳文はこうだ。

男か女かも、わからないという。ハーキャットだけでなく、リトル・ピープルは全員、男女のくべつがない。男でも女でもない、ということだ。

 男でも女でもないと知って、ガブナーはまごついた。

「そう言われても、どうすりゃいんだ、ハーキャット? 男だと思って、接すりゃいいのか? それとも、女か? 男も女もない、ただのモノか?」

「男だと……思えば……いい」*3

 リトル・ピープルは"genderless"らしい。これはおそらく、タイニーが彼らの身体を作るときに型がひとパターンしかないという事なのだろう。それは人間の男女のどちらにも分類できるものではなく、人間の性別という枠を当てはめると、"genderless"になるということだ(と私は解釈している)。”gender”は社会的・文化的な性を指す言葉なのでいまいちブレている感じがするが、ハーキャットにHeという意識がある以上、この「男女のくべつ」とはたぶん身体のことを指している。

 英語だけ読むとガブナーは特に「まごついて」はおらずサクッと代名詞を聞いていてだいぶ印象が違うのだが、ともかく、ハーキャット(リトル・ピープル)の身体は男女のどちらにも区別されない。そして、ハーキャット自身は主にHe(彼)と呼ばれたいアイデンティティを持っている事がわかる。

 ところで、ダレンとエブラはリトル・ピープルたちのことを「兄弟」だと思うことにしている、という描写がある。まあある意味では合っているのだが、面白いのはなぜリトル・ピープルが「男」だと思われるのかだ。がっしりした体型や冷静で無機質なイメージからなのかもしれないが、女性的とされる記号がないと無意識に男性とみなされる*4、男女二元論的な意識が働いているのだろう。

 この、「男女どちらでもない」という部分は、訳文のハーキャットの一人称「わたし」に込められているのだろうと思う。Tumblrなどで英語圏のファンのポストを眺めていると、ハーキャットをノンバイナリーのアイコンと捉えている人もいるようだ。確かにハーキャットはHeと言ってはいるのだが、ノンバイナリーでも自分をHeという人はいるし、クィアのファンはこうしてフィクションに自分の居場所を見つけるものだ。私自身もノンバイナリーだが、確かに二元的な身体からの解放と捉えるとちょっと羨ましい。それに、見た目が人間と変わらないバンパイアの中に明かに異なる見た目の生き物が混ざっていて、それがごく普通の風景になっていくというところもいい。見た目の上での多様さ、「ドラえもん」的な馴染み方である。たぶん体型も近いし。読み返す中でそういったことを考えて、私はハーキャットがさらに好きになった。

 

 4巻は、クレプスリー以外のバンパイアたちの紹介のほかに、組織や集団としてのバンパイアの生活や習慣の導入にもなっている。『クレプスリー伝説』を読むとこの辺の事情が詳しくわかって面白いのだが、バンパイアの社会はけっこうしっかりと組織だっていて、それなりにしがらみもある。この巻ではカーダが元帥に選ばれてもうすぐ就任するというタイミングであることがわかるが、前日譚はバンチャ元帥やミッカー元帥が就任したての頃でもあり、エラやクレプスリーも含めたこの当時200歳前後ぐらいの世代の人間関係は非常に面白い。一体なんなんだあの三角関係は。

 読み返して思ったが、バンパイア・マウンテンの家具や調度品、彫刻などには動物の骨が使われていることが多い。彫刻や建物があるということは、彼らなりの美的センスや文化芸術の歴史があるのだろう。もし映像化などされたらこの辺はかなり面白いのではないかと思う。

 

Even in death, may you be triumphant(5巻)

 ↑「死してなお、勝利の栄冠に輝かんことを」。後半で頻出するフレーズである。

 さて、クレプスリーは子供をバンパイアにしたことを元帥たちに責められはしたものの、罰や処刑は免れることになった。その代わり、弟子のダレンが一族にふさわしい人物であることを証明するために、「力量の試練」を受けることになる。力量の試練はバンパイアが将軍になるためのテストでもあり、極限状態での判断力や運、戦闘能力などが問われるものだ。ただし、怪我をしたりして試練を続行できなくなったバンパイアは、杭のある穴に何度も落とされて処刑される。

 半バンパイアであることを考慮し受ける試練を剪定したり、長年使われていなかった試練の準備期間制度を認めるよう元帥を説得したりと、バンパイアの大人たちは公正さに厳しい一方でできるだけダレンが生き延びられるよう知恵を働かせる。

 こういったバンパイアの法律の面からダレンをバックアップするのが、カーダ・スモルトだ。

 

A slender, blond vampire in a bright blue suit

 すらっとした、明るいブルーのスーツを着たブロンドのバンパイア。

 この一文だけで、カーダは一族の中でちょっと浮いているのだろうなというのが伝わってくる。カーダは漫画版やファンの二次創作では得てして美青年に描かれている(何いう私もそうである)ものだが、実は原作には顔についての描写は左頬の3つの小さな傷以外にない。でもまあ、数少ない女性のバンパイアであるエラが「特にすごい美人というわけではないけれど、暑苦しい男たちの中にいると映画スターのように見える」と描かれているように、カーダもほかのバンパイアに比べると優男で、傷跡が少なく、物腰が柔らかな分スマートに見えるのだろう。

 カーダは、この『マウンテン』の3冊で提示されるバンパイアの生き方や習慣と対を成すような人物だ。120歳とバンパイアとしてはかなり若い方で、弁が立ち、頭を使うのが得意で、長い間停戦状態にあったバンパニーズとの和平を目指している。戦いが下手なわけではないが、血を流すのが嫌いで、戦争よりも話し合いで物事を解決したい。

 バンパイアには老人と女性が極端に少ない。子供もいない。傷跡のあるバンパイアは大勢いるが、本編を読む限りはほぼ全員が五体満足だ。この層に対して「足手まとい」となる者は見捨てられる。カーダはこういった、バンパイア社会の健常者主義的なところや、プライドにがんじがらめになって自ら死を選びに行き、それを名誉と呼ぶような価値観に批判的だ。敗者や怪我人、老人であることと、彼らを名誉あるまま生かすことは可能だと主張しているのである。これはバンパイア・マウンテンの中にいるとかなり変わった考え方として受け止められるのだが、ダレンは3冊かけてこの意味について考えさせられることになる。

 

カーダの過去を妄想してみる

 話が逸れるが、私は、クレプスリーの過去と同じぐらい、カーダの過去が執筆されることがあったら読んでみたいと思っている。なぜバンパイアになろうと思ったのだろう? というより、なぜ人間をやめたいと思ったのだろう、と考えたほうがいいかもしれない。『クレプスリー伝説』の終盤に書かれていることを参考にすると、本編はおよそ1980年代の半ばから始まる*5。4巻はその8年後なので、90年代はじめだ。120歳というのから逆算すると、カーダは1870〜80年代生まれで、20代でバンパイアになったとして、主に20世紀を生きた価値観の人ということになる。クレプスリーは1800年に子供だったので、主に19世紀を生きた人だ。19世紀と20世紀では価値観が合わないのは当然のことなのかもしれない。バンパイア社会は世代交代に途方もない時間がかかると言われているが、こうして計算してみると確かに頷ける。

 これは私の想像なのだが、カーダは人間だった時代にかなりちゃんと教育を受けた、それなりの階級の人なのではないか。ヨーロッパのどこかの人だとはなんとなく思うのだが(少なくともドイツ人ではないらしい*6)、過去にあった歴史的な戦争のことをよく勉強してきていて、聡明さゆえに人間が嫌になってしまったベースがあり、その上に何かきっかけがあって……みたいな。地図の作り方とかどこで覚えたんだろう。少なくとも、ガブナーやクレプスリーとは全くベクトルの違う理由や事情がありそうではないか。

 

「高潔なバンパイア」=A vampire of good standing

 力量の試練は英語だと”Trial of Initiation”という。イニシエーション、つまり通過儀礼だ。試練が行われる様子は、4巻で紹介されたバンパイア的な正しい振る舞い(作中では「高潔さ」と呼ばれ、英語では"Good standing"と言う。反対語は"Poor standing"。)を実践を通して身につけていく、まさにイニシエーションである。

 バンパイアの文化には、「死の手のポーズ」という、右手を軽く開いてそのまま顔に当てたようなジェスチャーがある。額に置いた中指を中心に、人差し指と薬指を左右の閉じた瞼に、小指と親指を頬に、という具合だ。「死してなお、勝利の栄冠に輝かんことを」という意味である。名誉ある死を迎えたバンパイアは(バンパイアの)神々に讃えられ、一族全体がその恩恵を受けられるので、高潔なバンパイアは死ぬ時でさえ(=Even in death)、自分よりも一族のためをまず優先する。ポーズはそれを思い出すためのものだそうだ*7

 整理すると、Good standing”とは、個人よりも所属している集団の方を優先し、死ぬ時でさえそれを貫く姿勢のこと、ということだ。死の手のポーズはその象徴である。

 4巻のクライマックスはダレンが力量の試練を受けると元帥たちに告げる場面だが、その時に考えることは「自分の力を試したい」そして「クレプスリーに恥をかかせたくない」である。ダレンの"Good standing"は、クレプスリーを入り口として始まっているのだ。子は親の背中を見て育つものである。

 

 さて、ダレンは5つある試練のうちの3つ目で大火傷を負ってしまい、負傷したまま4つ目の試練に挑む。バンパイアの血を飲んで凶暴化したイノシシにあわや殺されるところだったが、ハーキャットが助っ人に入ったことで一命を取り留めた。生き延びたはいいが現場は大混乱で、ダレンは処刑されるか否かの処遇を待つことになる。

 そこへカーダがこっそりとやってきて言うのだ。「逃げだすんだ」と*8

 読み返して気づいたが、このときのカーダは、自分たちの勝手なプライドや伝統に、それに触れたばかりの子供を巻き込み死なせてたまるかと必死だったのだろう。私が5歳の姪っ子を見て、古い価値観に基づいた差別や制度に巻き込まれてほしくないと思うのときっと同じことだ。この3冊をダレンの子供時代の終わりの3冊と考えると、カーダはダレンを子供として見て守ろうとした最後の大人だったのかもしれない。

 カーダに説得されてダレンは山を出る洞穴を進むが、事態を嗅ぎつけたガブナーに追いつかれる。「元帥の裁定に逆らってはいけない」「逃げたら信念に反する」と口では言うが、説得力がないのは一目瞭然だ。「元帥の裁定」「バンパイアのやり方と信念」は、それが間違っているとしても命をかけるほどのものなのか?

 そして、自己矛盾に陥るガブナーに、ダレンは「ガブナーがどうしてもって言うなら、もどるよ」と声をかける。

 例えば、バンパイア祝祭の間は、「戦えと言われたらことわらない」*9のが決まりになっている。祝祭の間はダレンもこれに従ってあれこれゲームをするのだが、それ以外にも、ダレンは周囲のバンパイアの体面を考えて、求められる振る舞いをして周りに馴染もうとしている。もちろん全ての行動の理由がこれというわけではないが、試練を受けると決めた時に「クレプスリーに自分のことを誇りに思って欲しいから」と考えなかったわけはないはずだ。

 ダレンが周りの大人に倣って”Good standing”を覚えて実践し続けた果てが、「あなたがそうして欲しいなら処刑を受ける」というのは、あまりにも残酷ではないか。これを正面から聞いたガブナーは"I don't want you die!"(「だれがおまえを死なせたいもんか」*10)と泣くしかない。

 

 『クレプスリー伝説』を読むと、ガブナーもクレプスリーと親子のような関係を築いていたことがわかる。クレプスリーはガブナーの父親にはなってやれなかったと考えているようだが、ガブナーの方は父親同然だと思っているようだ。出版された順番からすると後付けでしかないのだが、きっとダレンのことを弟のように思っていただろう。ガブナーの台詞は、たぶんクレプスリーの気持ちでもあるのだ。

 

The hands of fate keep the time on a heart-shaped watch(6巻)

↑「運命は心臓の形をした時計の中で時を刻む」。

 カーダがガブナーを刺し殺し、バンパニーズと通じていたことが明らかになり、ダレンがこれまで触れて学んできた"Good standing"という概念は完全に混乱してしまう。飲まれる濁流のように何もかもがめちゃくちゃになり、ダレンはバンパイア・マウンテンの外にポンと放り出される。この冒頭の数章の臨場感とスピード感は英語で読んでもすごい。ダレンが流されたのは「永遠の航海の間」(”The Hall of the Final Voyage”)という、死んだバンパイアの遺体を山の外に送るための巨大な水路だ。1巻の終盤同様、またしても死体と同じ道を辿っているというわけである。

 

 4〜6巻は、子供時代の終わりの3冊だ。初めてバンパニーズの存在に触れた時、ダレンは子供で「大人の事情」には入れてもらえなかった。ガブナーが初めて登場した時に「盗み聞きをするな」とクレプスリーから釘を刺されるあたりなんかはまさにそうだろう。この3冊が終わる頃には、ダレン自身が「大人の事情」のまさに中心になっていき、それに伴って失っていくものや手放すものが描かれている。

 

狼に育てられた少年*11/最高の”スポーツ”

 濁流を生き延びたダレンは瀕死の状態を狼の群れに助けられ、徐々に回復してゆく。狼たちとの言外のコミュニケーションが言葉を尽くして語られる。ダレンは群れの一員としてしばらく生活した後、自分を探す捜索隊を偶然に見かけたことで山に戻る決意をする。

 ダレンはこれまで周りのバンパイアたちに倣って"Good standing"を実践してきたわけだが、この巻では山から離れたことで終始それが俯瞰され、問いにかけられる。ダレンは、群れの中でいざこざを起こし、戦いに負けた狼が群れから追い出されずにその一員として扱われる様子を見て考え込む。敗者を無闇に追放したり殺したりせずに、その人の名誉を守ることができたはずだ。カーダが言っていたのはこういうことだったのだ、と。

 ここの部分の英文は、"It was possible to be both honourable and practical"(「名誉を重んじつつ、むだなことはやめればよい」*12)とある。practicalとは「実践的な、現実的な」という意味なので、バンパイアの理想=名誉(honour)と現実のバランスをとることができたはずだ、というようなニュアンスだ。

 このシリーズでは、描かれるものとしてバンパイアの生き様が大きなウェイトを占めている。ドラキュラ伯爵のような伝説上の存在ではなく、彼らなりの生き方がある現実の存在だとしたら、それは一体どんなものかという社会学的なテーマだ。バンパイアは自分にも仲間にも非常に厳しく、それを美徳とし「高潔」と呼ぶ集団だが、本作はそれをただ美化することには慎重である。自分の属する集団の理念にいかに溺れずに疑問を持てるかが、この3冊でダレンに課される本当の意味でのイニシエーションなのだ。

 

 ダレンは狼たちの手を借りてバンパイア・マウンテンに戻り、カーダが今にも元帥になろうかという時にその企みを阻止することに成功する。ダレン自身の処遇はいったん保留とし、バンパイアたちは山の中に潜んでいるカーダの仲間、バンパニーズの集団の討伐を急いだ。ダレンが提案した蜘蛛を使った作戦は大成功を収めるが、すぐに戦場は血の海になり、ダレンはバンパイアたちの「誇り高い死」が一体なんなのかわからなくなってしまう。

 この辺りで面白いのは、「誇り高く死にたい」がどういう状況で出てくるものかを、ダレンはまず殺されてゆくバンパニーズたちを見て客観的に知るということだ。洞穴に潜んでいたバンパニーズの集団は38人で、対してバンパイアは夥しい数の蜘蛛で襲った後に3陣に分かれて交代で攻撃していった。バンパニーズは圧倒的に不利で、状況からして誰も生きて洞穴から出られないことはわかっている。出られたとしても、バンパイアたちに野次を飛ばされながら処刑される。ならば、最後まで戦って「誇りを持ってどうどうと死ぬ方がましと思うに決まっている」*13

 ダレンは戦場となった洞穴の中でかなり孤独だ。6巻は特にこの傾向が顕著だと思うが、クレプスリーの出番がかなり少ない、というか、あけすけに言うのならば、この3冊でクレプスリーはあまり役に立たない。ダレンは「バンパイア=クレプスリー」ではないと知り、そしてその中に理解できない、受け入れ難い部分があることを知り、その上で師を尊重しようとする。こうして書くと、カーダがバンパニーズについて説いていたことのようではないか。

 そうした世界を俯瞰する感覚を、ダレンは師ではない別のバンパイアから教わる。力量の試練で教官を務めたバネズ・ブレーンは、殺しがいかに異常なことかを忘れるなとダレンに話した。「あいつらは、この戦いを最高のスポーツだと思ってる」「戦がいかに無意味で野蛮な行為か、誰も気づいちゃいない」「いまの思いをわすれるなよ」*14

 

子供時代の終わり

 ダレンは前巻で一度、マダム・オクタを山に離してやったらどうかとシーバーに勧められたことがある。その時は「もし人を刺してしまったら大ごとだから」と断るのだが、洞穴での戦いが終わった後、シーバーはマダムが山の蜘蛛と連れ立って歩いている様子をダレンに見せて、もう一度同じことを提案する。

 ダレンはそれまでシーバーと、戦うことの是非や意味について話していた。これより前からも、ダレンはとにかく周りの大人に文句をガンガン言うタイプの子供だった。特にクレプスリーとはその会話のほとんどが文句の応酬であるくらい、変だと思ったことはかなりはっきり口にする。この文脈の最後の問答が、シーバーとの戦争についての話である。ここ以降、「子供」のダレンが「大人」の誰かを質問攻めにするという光景はあまり見なくなる。

 「元帥たちは、みょうなほこりにこだわりすぎた。だから、バンパニーズと話しあってみぞをうめる努力をしなかったんだ」と嘆くダレンに、シーバーは(カーダが裏切り者となった今)「ほかにだれが、世の中や生き方を新しくしてくれるのだ?」と問う*15。シーバーの様子からして、きっとダレンのような若い世代がやるのだと答えは出ているのだろう。そうして先の未来を憂うダレンに、シーバーはマダム・オクタの話を持ち出す。

 これまでの文脈を踏まえると、ここでマダム・オクタと別れるというのはとても象徴的だ。マダムがいなければそもそもバンパイアになることもなかった。一度は世界で一番のペットとして愛情を注いだが、スティーブを刺してからは顔を見るのも嫌で、窓から籠を放り投げたこともあった。マダムを使ってクレプスリーを刺し殺そうとしたこともあった。マダム・オクタはダレンにとって、バンパイアとなってから子供時代に抱えた憎しみの象徴なのである。

 それを、ダレンは「離す」ことにする。先の未来をどうするかという、今決め切ることのできない問題を一旦置いて、今出来る選択として、憎かったはずなのになぜか寂しい、奇妙な気持ちになりながら。

 カーダの尋問はこの後すぐ次の章だ。この章の冒頭では、クレプスリーがかつてパートナーだったエラの最期の様子を語る場面があり、別れ際に「戦場ではよくやった」とダレンに声をかける。ダレンは「ありがとう」と「むせび泣」く*16。ここの英文で使われている"choking"は、「息を詰まらせる、感情が昂って咽ぶような」という意味だ。クレプスリーがこうして弟子を褒めることはめったに無いが、ダレンにとっては、今まで生き延びるために必死についてきた師がある意味で他人になる、親離れの瞬間だったのだろう。

 

 カーダの尋問では、バンパニーズ大王が現れたことが明らかになる。「プライドよりも命を優先するべき」という信念のもとに、バンパイアをバンパニーズに吸収させて戦争を阻止する計画を立てたカーダは、全く同じ理由でダレンを助けたことでそれを露呈させることになってしまった。

 カーダは血を流したくないと言う一方で、「計画をじゃまする者がいれば、ガブナーと同じようにまよわずしまつしただろう」とも言っている*17。ミスター・タイニーがバンパニーズのもとを訪れて大王を探せを命じたのが3年前、大王が見つかったのは半年前*18と考えると、相当焦って立てた、一か八かの捨て身の計画だったのだろう。

 『クレプスリー伝説』では、推定6〜70歳の頃のカーダが登場する。第二次世界大戦末期のベルリンで、彼は怪我人の救護活動を行なっていた。理由は、「人助けが好きだから」*19。当時はバンパイアとバンパニーズの関係が落ち着いていたので、助けが必要な人間のところに行っていたのだという。クレプスリーとエラはこの時カーダと一緒にしばらく行動し、大戦で傷ついた人間たちをあちこちで助けた。広島にも行ったらしい。

 本当に、この人どうしてバンパイアになったんだろう? 初めて登場した時からカーダはこうだったのだ。前日譚では多くのキャラクターの過去が語られるが、カーダは最初からバンパニーズとの和平を目指したいと、それだけを言っている。この感じだときっと、あの後も朝鮮戦争ベトナム戦争中東戦争なんかを見てきたのだろう。変わっていく人間の世界とその戦争と、変わろうとしないバンパイアたちを50年近く見て、自分の世代は血を流すまいと思いを強くしたのかもしれない。

 

 ダレンは元帥になる。子供時代に抱えたものの一部を手放して、自分がどちらの側につくのか立場がはっきりする。バンパイアとバンパニーズは戦争状態となり、ダレンはそれを率いる地位になってしまう。立場と責任、凄惨な状況でこの時の葛藤を段々と忘れたことを後悔するのは、最終巻までお預けだ。

 

次→

 

kemushimushi.hatenablog.com

 

*1:ダレン・シャン『バンパイア・マウンテン』橋本恵訳、小学館、2002年、13頁

*2:Darren Shan, Vampire Mountain (London:Harper Collins,2002), chapter9.

*3:『バンパイア・マウンテン』91頁。

*4:逆も然り。面白いことに、これにはカーダが当てはまるのかもしれない

*5:クライマックスが1960年代後半、その後修道院に移り10年、さらにシルク・ド・フリークに移って数年→1980年代半ば。

*6:ダレン・シャン『クレプスリー伝説4 運命の兄弟』橋本恵訳、小学館、2012年、169頁。

*7:ダレン・シャン『バンパイアの試練』橋本恵訳、小学館、2002年、40-41頁。

*8:この場面で迷うダレンに「どう思う?」と聞かれたハーキャットは「行け」と即答しているのだが、ひょっとしたら「逃げれば?」と今にも言おうとしていたところにカーダが来たのかもしれない。

*9:『バンパイアの試練』89頁。

*10:『バンパイアの試練』199頁。

*11:少々話が脱線するが、私は『ダレン・シャン』がきっかけになってちょっとした活字中毒になり、当時たくさん刊行されていた海外ファンタジー小説を手当たり次第読んでいた。その中に『クロニクル 千古の闇』という紀元前の北欧の森が舞台の小説シリーズがあって、主人公の男の子が幼少期に狼に育てられたという設定だった。私がこの辺りの文学ジャンルにもっと詳しければ良かったのだが、たぶんこの「狼に育てられる」というのも何らかの文脈があるのだろう。『ジャングル・ブック』なんかが代表的なんだろうが、狼少年や狼少女の記録や伝説は少し調べるだけでもたくさん出てくる。

*12:ダレン・シャン『バンパイアの運命』橋本恵訳、小学館、36頁。

*13:同上、148頁。

*14:同上、139-140頁。

*15:同上、157-158頁。

*16:同上、169頁。

*17:同上、189頁。

*18:よく考えるとこれはスティーブのことだ。ダレンがおよそ18歳とすると、3年前とは家出をした15〜6歳の時期で、タイニーとしてはそこが分かれ目だったということなのかもしれない。

*19:『クレプスリー伝説4 運命の兄弟』170頁。