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ひとり映画感想文集

夢のまちウェストビュー:『ワンダヴィジョン』考察

 

 アメリカの高度経済成長とともに同国のコンテンツに溢れていった「郊外」を舞台にしたシットコムのざっくりとした変遷が追える、とてもおもしろいドラマだと思う。
 1話のエリザベス・オルセンの衣装、胸の形(ブラジャーの尖ったシルエット)までちゃんと50年代だったのがまず見てすごいなと思った。1話ごとにセットも、見たところ家の作りも若干変わってるような気がするのですごい労力だと思う。
 
 しかし、80年代パートが『ファミリー・タイズ』なのはびっくりしてしまった。マイケル・J・フォックスBTFとほとんど同時期に撮っていたシットコム(ファミリータイズ出演中にマーティ役が決まった)で、もう日本では見る手段がほとんど無い(と思う)ドラマなのでこれがあまり有名だという意識がなかった。アメリカでは『フルハウス』と同じぐらいポピュラーなのかもしれない。
 ドラマが「シットコム」の筋から外れる瞬間が感覚的にこちらにもピンとくるようにしてあるというのがとてもいいなと思った。バストショットやミドルショットで固定された画面から急にカメラが移動し始めるとドキッと来る(1話ラストとか)。逆に、シットコムの画面のまま会話だけがどんどん筋を逸れていく(5話ラストでスタッフロールが流れる場面)という演出も観ていて非常に不安になってくる。

 

○ウェストビューに横たわる「幸せな郊外」の概念
 アメリカの郊外は、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のヒル・バレーが50年代にそうだったように、都会からある程度(通勤できる程度に)離れた、空気がよくて土地も広く核家族が子供を育てるのに格好の「夢のまち(a nice place to live)」である一方、非常に画一的(どの家も似たような見た目)で住人同士のプライバシーがほとんど無い(詮索好きな隣人)閉鎖的なコミュニティ(まるでバリアが貼られたように外界から閉ざされている)が築かれる場所でもある。
 「「普通」でありたい、そうであれたら良かったのに」という思いをベースに、ワンダが過去に受けた傷や願望が郊外という形をとって、メタ的な部分まで(シットコムのドタバタはセットの中での出来事であるというところ(「本当に大怪我してるわけじゃないの」))視覚化されているということがわかる。彼らが「普通」に暮らすには、ウェストビューという小さい街を郊外とするための文字通りのバリアを張り、住人たちは思い通りになるよう画一的でなければならない。バリアの内側に入るものは強制的に「ハッピー」化され、笑顔になるという「異常」さ。ワンダが「普通」を求めて街を作れば作るほど、ウェストビューの「普通」という「異常」さは増していく、というこの表裏一体な感じ。これが「アメリカの幸せな郊外」に横たわる概念とよくシンクロしている。
 そして、ワンダは過去に郊外に住んでいた経験があるというわけではなく、ウェストビューは「シットコムの郊外」という彼女の幼少期のアメリカのイメージから作られた街であるというのも大事なところかもしれない。(文字通り)ハリボテ感というか、作中のヴィジョンのように見た目だけがあって中身がない感じというか、嫌なもの・見たくないものを綺麗なもので塗りつぶそうとしている(まさにこの街を作ったワンダのように!)ような感じ、ありとあらゆる点で「郊外」的な街。おもしろかった。


・追記:双子が一瞬飼っていたけどアガサに殺されてしまった犬「スパーキー」は、1984年のティム・バートンの短編映画『フランケンウィニー』(そのごアニメーションでリメイクされた)からかと思う。交通事故で愛犬を亡くした男の子が犬を生き返らせるという話で、愛するものを取り戻したいという軸は確かにワンダと同じ。あと『フランケンウィニー』では愛犬を電気ショックで蘇生させる=電気をエネルギーとし体を布やほかの毛皮で継ぎ接ぎにした「モノ」にする、という話でもある。ヴィジョンはワンダの愛する「モノ」である、という視点が入っているのが見て取れるのがとても良かった。